140131 はずかしきょうかい

「小さいおうち」について知っている大学教授が書いていた。
さすがにと思うが少しその部分を要約してみよう。
それなりの家をもちそれなりの家族の幸せを得ている主人公たちだが、実は戦時下にいるのだ。
そして小市民として戦争はもうすぐ終わるだろうなどと楽観的に見ているがそれと裏腹に現実は期待を裏切り状況は悪化していく。
ついには丙種合格の男(不倫の相手)までも召集が来てしまう。
この裏切られ方は今日の状況に重ねてみることが出来ないか。
・・・ということである。
以上勝手な要約終わり。

ニッポン・ハズカシ・キョウカイと辺見庸はいっているが会長発言の物議。
今さら国会で弁明したってはじまらんのじゃないか。
化けの皮は剥がれたのだし、いくら放送法かなにかしらんが則ってやるといっても、皮の下が見えた以上黒いやつが白黒つけずにやると言っても誰が見たって無理な話だ。
そんなこともわからんほど舞い上がっているのか、ほんとにわからん馬鹿かどっちかである。
不偏不党が聞いてあきれる。
反・不偏不党を見せたやつが口先で、これからは反省して云々といっても信じるやつはいまい。
いるとしたらグルの奴らだけ。
机の下では舌を出しているのだろう。
やっぱりこんな奴らに聴取料も税金もやりたくない。
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140130 小さいおうち

映画「小さいおうち」を見てきた。
山形から出てきたおばあちゃんの自伝を元に昭和の初め(戦前)の東京の一家庭の様子と平成の現在の様子を交え、物語は進んでいく。
特に昭和の初めの「女中」奉公したときの家、その中の男女の恋愛、今で言う不倫をテーマにしている。
言葉遣いが非常に丁寧である。
女性の言葉としてああいいう話し方をしていたのかと、今のがちゃがちゃした話しぶりとは違う上品さを感じた。
「小さいおうち」は外国の作家が書いた小さな絵本だが、今回もやはり書店でそれがよく目に見える形で出ていた。
物語はこの書店の場面から急展開するのだが、それが何であるかあらかじめこちらは分かっているのに、やはりドキドキして見る。
その場面とおばあちゃんの苦悩とが重なったとき胸にぐっと来るのだ。
そしてあのとき主人公(おばあちゃん)が取った行動がもしも違っていたならどうなっていたのだろうかなどと想像がふくらむ。
詳しいことはここでは見てない人のために言えないが、切なさというものが胸に残った作品だった。

140129 ピート・シーガー

ピート・シーガーが亡くなったというニュース。
覚えているのは俺らの年代までだろう。
フォークの神様だった。
「花はどこへ行った」を初めて聴いたのは高校生の時だった。
PPMが歌っていたが、ピートの曲だとは知らなかった。
WE SHALL OVERCOMEもジョーン・バエズだったからピートだとは知らなかった。
しかし、ボブ・ディランが出てくるようになって、ピートの名が知られるようになった。
それは俺だけのことかも知らないが、IF I HAD A HAMMERもそうだった。
なかなかピート本人の声を聴く事は少なかったが、そのころのフォークのフォークらしさを一番始めに歌い出した人なのだろう。
フォークとは民衆という意味からすれば、貧しいながらも地道に生きている民衆の歌だった。
権力や金や人気におもねない歌だった。
反体制的なところがある歌だった。
ハメリカでも、ウッディ・ガスリーやジョーン・バエズ、PPM、ブラザーズ・フォーなどフォーク歌手が出てきて流行した。
そして極めつけがボブ・ディランだった。
日本でも刺激されて、新宿西口あたりから広まっていった。
高石ともや、フォーク・クルセイダーズ、岡林信康、高田渡などなど。
ギターを買って弾くのがそのころの若者のはやりだった。
ご多分に漏れずやってみたがからきしだめだった。
その後、フォークは廃れてロックになっていったが、それでも一部では細々と続いている。
笠木透という人は70年代よりずっと続けていい歌を作っている。
やはりフォークといえばその歌詞に特徴がある。
メッセージ性が高いところだろうか。
愛の歌だってよかった。
「わたしに人生といえるものがあるなら、あなたと過ごしたあの夏の日々・・・・」という歌の歌詞が頭から離れない。

140128 軽いやつら

某放送局の会長発言の物議。
得々としてしゃべっているが、軽いやつだなーと思った。
某大阪市長と同じ。
某国の総理とおんなじ。
軽いやつだなーみんな。
おごりのなせる技なのだろう。
俺らの聴取料でやってるやつだが返せといいたい。
もう払わないといいたい。
総理にしても同じく俺らの税金でやってるやつだがあんなモンにやりたくない。
特に政党助成金なんてやりたくないやつに回っていくかと思うとますます払いたくない。
確定申告の用紙が来た。
俺らからはぎちぎちに取って、企業には法人税を安くするような動き。
年金も削られるしどっち向いているかはっきり分かる。
このグチをグチのままにしておくのは隷従だ。
年金切り下げの紙が年末に来たが、困るの抵抗文書をまとめてくれるというので預けてきた。
どうせなんにも変わらんだろうが、黙っているよりまし。
ていうか、何らかの影響力はあるだろう。
でないと、やってられねーやということになる。

140127 お金3題

金のことで言えば、まずマー君の7年契約161億。
引っ越し代が300万に年間家賃が2000万だったけかな。
年間の所得が23億。
1日630万である。寝とっても630万。
税金で半分持っていってもいちんち315万。
1年間働いても200万にならないという貧困層が居るのにあほらし。
しかし、人間、この間も言ったように(言ったかな?)こつこつ働いてこつこつ稼ぐのが一番。
野球選手は特別だ。

次ぎ、貿易赤字が11兆4745億。
これは火力発電などで使う原油の輸入が増えたため、
しかも円高だと言う輩もいるのであるが、
しかもだから原発は必要だというのであるが、
俺に言わせれば奴らには命の値段は頭にないらしい。

次ぎ、相変わらずのばらまき、インドへ2000億。
この間もトルコへ429億やったばかり。
やるのはいいが俺らの税金だ。
相談あってもいいだろう。
個人の判断で勝手にやってもいいのか。
クローズ・アップ現代、今日は若年女子の貧困問題を特集していた。
10代20代の貧困が増えている。
シングルマザーもいる。
非正規や派遣労働者が若年層では43%。
保育所の数も足りない、保育士の給料も高くない。
のでこれも悪循環。
アクマミクスは全然だめだ。

140126 東京家族

テレビで「東京家族」を見た。
劇場公開の時、見に行こうと思っていたが、見に行けずに済んでしまったのだった。
笠智衆のやった「東京物語」は見たが橋爪功は、笠智衆の感じをよく出していた。
物語の筋はさておいてああと思ったところを二つ。
橋爪功が昔の同僚と居酒屋で飲むところがあるが、そのとき昔の話に触れて、勤務評定とか学テとか道徳という言葉が出てくる。
それらについて闘争したとか反対だったとかの言葉はないが、暗にそういう気持ちだったろうということは察しがつく。
映画のこととて反対とか言う言葉は使わなかったが、そういう三つの言葉を出すことによって暗に批判していると言うことが感じられたのだ。
さすが山田監督。
もう一つ、蒼井優が書店の店員をしていて絵本を取り出してお客に見せるところがあるが、瞬間的に「小さいおうち」の絵本ということが分かる。
次回作(今上映が始まった)「小さいおうち」を予告しているということがわかるにくい演出。
分かる人には分かるが見逃す人も多いかも知れない。
もちろん題名は同じでも作者は違う「ちいさいおうち」であるが。
ということで今度は忘れずに「ちいさいおうち」を見に行くと決めた。

140125 捨て去る

アマゾンの奥地にすむ狩猟民族の話をTVでやっていた。
森に住み以前は移動生活をしていたが、政府の指導によりそのまま森に定住をするようになった。
電気、ガス、水道など文明生活とは無縁。
自分たちの所有物はほとんどない。
究極の断捨離生活である。
あるものが言っていたが人間は自分の出来ること、自分のもの、自分に従属する物を捨て去り捨て去りして、最後に何もなくなった時点が死だというのだ。
勤めていた会社を辞め、子育ても終わり子は独り立ちして手が放れ、地域の役もやめ、田んぼ、畑の仕事、草取りもやめ、運転もやめ、年老いて、歩くこともやめ、食べるときは食べさしてもらい自分では咀嚼するだけ、下の世話もやってもらい、寝させてもらい、起きさせてもらい、息をしているだけになり、やがておさらばとなるのだ。
それが断捨離というかどうかは別にして、なるほど捨て去り捨て去りして死を迎える。
アマゾンのその民族にとって持っている物は食料を手に入れる道具ぐらい。
しかし、生きるためには、道具だけではむりだった。
仲間の支え合い、助け合いが必要だった。
文明人は得てしてその仲間というものがない状態でして死に至る。
文明人の孤独と言おうか。。
だがアマゾンの民族は、孤独がない。
断捨離して残るのが、アマゾンは仲間だとするならば、文明人は得てして孤独なのか。
自然と共に森に生きるアマゾンに文明の悪影響が及んでいる。
森の消滅、温暖化による気候異変。
原発なんてアマゾンに取ってみれば全くなんと言ったらいいか別次元の話。
自然や森と共に生きようとするもにとって断捨離の究極は原発である。

140124 とんでも官邸団Ⅲ

とんでも官邸団(世界2からパクリ)
配役:とんでも総理(ベア=クマ)、ガス官房長(ガス)、やぶにらみ幹事長(ヤブ

クマ:今日のボクの演説はどうだった、ヤブ君。
ヤブ:まあまあじゃないすか。どうせ官僚の作ったモンですし。
ガス:この前みたいに、腹が痛くなって投げ出さなければいいっすよ。
クマ:まあそれもそうだな。
ヤブ:野党の奴ら、責任野党という言葉に泡食ってますぜ。
クマ:してやったりだな。俺も俺もとすり寄ってくるな。
ヤブ:分裂しまくるとおもしろいですな。
ガス:ナワオキじゃやられましたから、首都では取り返さないと行けませんでガスよ。
クマ:ヤブ君のナワオキ発言はびっくりしたよ。
ヤブ:500億のこってすか。
クマ:どうするんだい。負けても500億出すのかい。
ヤブ:まさか。そんな金、ないっすよ。勝ったら出す金ですよ、あれは。どうせ税金ですし。
クマ:君も悪よのー。
ガス:ところで、分裂といえば首都の親子分裂もおもしろいですな。
ヤブ:石腹親子に故意墨親子ですか。それにマキゾエ君とこは、元カノも居たりしてこんぐらかってますぜ。
クマ:うちの党じゃ、マキゾエ君にしたけど、ボク個人じゃ、やっぱりタボデビ君がいいな。
ヤブ:あたくしもほんとはデビル君が好きー。だって私ら戦争お宅だもーん。
ガス:いっそ、タボデビの応援に行きますか。我らだけで。
クマ:よし、ばれないようにそうしよう。
クマヤブガス:♪ボ、ボ、ボクらはとんでも官邸団。戦争大好き官邸団。♪

140123 非暴力革命

この前書いたラ・ボエシの以下の引用は「世界」2の海渡雄一氏の文にも引用されている。
「もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせとか言いたいのではない。ただ、これ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、自らの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。」

ユーチューブで非暴力革命のすすめ ~ジーン・ シャープの提言」というのを見た。
NHKのBSでやったものだが、再放送はないかと思ってネットで調べたがないようだった。
その代わりというかちょうどその番組がユーチューブにアップされているようだったので見た。
48分ぐらいの番組である。
筑摩文庫のボエシの「自発的隷従論」に解説者がジーン・シャープのことを書いていたので検索して見てみたのだ。
ジーン・シャープのその提言は全部で198の方法があるということで、これまでセルビアやチュニジア、エジプト、などでその提言が生かされてきた。
非暴力の方法によって体制を変えていくと実践である。
ある意味革命といってもいいだろう。
やはりボエシの自発的隷従論とも互いに共鳴というか相通ずるようなところがある。
シリア問題はやっと双方がテーブルにつき外国や国連などの監視のもとで話し合いが始まったが、双方がまだ罵りあうばかりで進展はないし、決着はなかなか遠いようにも見える。
双方が武器や暴力によって対峙しているから難しい。
やはり暴力の連鎖になり、悪い循環に陥るのではないかと思う。
ニッポンのこの現状にもジーン・シャープの提言は生かせるところがあるのじゃないかと思う。

140122 ボレロ

クラウディオ・アバドが亡くなった。
中日のコラム子は追悼?の言葉を寄せている。
その中から三つのエピソードが心に残る。
一つは彼が子どもの時ドビュッシーの夜想曲を聴いていて、そのとき舞台上から光や色が放たれ、絵が見える気がしたという。
二つ目は、彼が指揮者となってやったラベルのボレロの演奏では、クライマックスで、強烈な叫びが聞こえる。
演奏する楽団員たちが興奮のあまり上げたという雄叫びだという。
それほどまでに魔法にかけられたようになっていたのだという。
そして三つ目は、晩年胃ガンになって胃を全摘した。
しかし、彼は、「体の内部からの声が聞こえるようになった気がする。胃を失った代わりに、内なる耳を与えられたようなものだ。」と言ったという。
音楽家らしいエピソードだが、やはり常人では会得し得ない感覚があったのだろうと思う。
わたしが初めて彼の指揮の演奏を聴いたのは、勿論生でなくてレコードからだったが、ベートーベンの7番だった、と思う。
1970年頃かと思うが、力強い演奏だったように思う。
ピエール・ブーレーズが先かアバドが先かという時期だった。
アバドのボレロの演奏は聴いたことがないがその雄叫びが上がるところが是非聴いてみたいものである。
ボレロといえば映画にもなったが、あの映画もモーリス・ベジャールが振り付けたというダンスを見ながら聴くと最高に面白い。
もう一つ自分自身のことだが、このボレロを教えてくれたのは高校1年のときの友達の桑田君だった。
彼は今頃どうしているだろう。
クラシック好きだった。

140121 自発的隷従論5

西谷氏は現在の日本に照射してボエシ論を展開しているのだが、昨今の某自民党の中を見てもそれはよく分かる。
一者の繰り出す自己中的空事愚策にほいほいと付き従い服従し隷従ししかも持ち上げている。
そしてハメリカの思惑に憑かれたように耳目をそばだて、あっちが風邪ひきゃこっちも風邪引いて、失望したといわれてもいつまでもおもてなしを繰り返し下僕に成り下がって、それでも自主独立だなんて騒いで恥ずかしくもなく威張っている。
それをよしとしてきたニッポン。
このバカな奴らとハメリカの2重の隷従を強いられているのじゃないか。
そのへんのところを西谷はボエシの論から照射し顕現させている。
約半世紀にわたる安保のもとでの某自民党の独占的統治は、ハメリカとの同盟関係といいながら実は従属関係であり、同調、追従を重ねてきた。
まさにこびりついたように離れない服従の心で来たわけである。
2009年からの政権交代があっても、同盟の危機だの、奴らが怒っているだのと騒ぎ立て、せっかくの政権交代も元の木阿弥になってしまった。
核の傘の下に入り、平和利用という言葉に騙され原発をいくつも作り、ハメリカの強大さに魅了され、憧れ、従い、見習って何でもハメリカ風をよしとするようになり、その風潮は二世代、三世代にわたって引き継がれて今になっている。
これがボエシのいう生まれつきの隷従状態、習慣化による自発的隷従というわけである。
ジョン・ダワーのいう「敗北を抱きしめて」じゃないけれど、「従属を抱きしめて」状態なのである。
ボエシは言う「・・・だが、圧制者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。
この者たちは圧制者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望むとおりにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。
連中は、圧制者に服従するだけで十分ではなく、彼に気に入られなければならない・・・」
この「圧制者」をベアとかハメリカと置き換えてみるとおかしいくらいぴったり来る。
ハメリカは今はやや傾きかけているが、いままで世界の頂点に立つ「一者」だった。
そしてその「一者」の支配秩序をニッポンに浸透させ、他に類のない「親ハメリカ国家」に仕立て上げたのが支配エリート(官僚、政治屋、経済ボス)の「自発的隷従」なのである。
こうしてボエシの暴露して見せた支配秩序のメカニズムは驚くほど正確にニッポンの統治構造を照らし出している。

西谷はほかにキリスト教信仰にも自発的隷従の観念を論じているが割愛。
あるいは「言葉・言語」にも論を進めているが割愛。
最後に西谷は、ボエシのこの論文は、圧政に苦しむ人々の「目覚ましの鐘」となりつづけたが、それにとどまらず、この真理は人間の生存の一般条件にまで読む者の考えを波及させ、権力関係の源泉にまで届く潜在的な射程を秘めている。・・・と言っている。

140120 自発的隷従論4

名護市長選や福島の南相馬市長選で、地方の反自民を示したわけだが、おまえらに隷従はしないぞという意思表示は大きな意味を持つ。
次は首都の知事選。
脱原発候補は二人いるからどうなるかが心配だが、一方は新自由主義を進めたやつがバックについているから心底推す気にはならない。
あんなのは単なる人気取りだ。
今更何で人気取りか、死ぬまでちやほやされたいのかと勘ぐってしまう。
ほんとに都民の味方なのか。五輪のこともあるし細かいところまで見ないとだめだ。
もう一方は内部問題?もあるようだし、そこら辺クリアしないと多分後味が悪いだろう。
いずれにしても脱原発、五輪はそこそこ、脱成長、労働者の安定、福祉優先、平和優先みたいな感じの候補がいい。
ネオナチみたいなタモデビル(ニックネーム)がダントツの1位という馬鹿げたデータもネット上で見られたが、戦争してチャラにして新しい世界を作りたいみたいな投げやり的ニヒリズム的みんながひどくなればいいみんなが苦しめばいいみたいな自分は外にいて世界の破滅を待っているような夢も希望もない丸山真男をひっぱたいて希望は戦争みたいなホントの気持ちじゃないにしてもそんな気分にならされてしまう一部の階層の支持に過ぎないだろう。
ていうか、それは言い過ぎかもしれないが、そう思わされてしまうこの階層もほんとはこちらの側なのだろうから、デビルを推すのは根っからのウルトラ保守か狂信的ライティストだろう。

閑話休題、自発的隷従論に戻る。
ボエシのこの本を世に出すようにしたのは、西谷修(にしたにおさむ・東京外大)氏の力が大きかった。
で最後に、西谷氏の解説があるのでそこから少し。
氏は1945年以後の日本とこのボエシの論究を重ねて見ている。
特にこの本は今日の日本できわめて啓発的な意味を持っていると述べている。
・・・前置きが長くなったのでここまで。
続く

140119 心強き声明

名護市長選は注目していたが現職が当選確実となりやれやれである。
相手方はバシイが相変わらず札束をちらつかせて懐柔策を試みたが市民は屈しなかった。
やぶにらみが地団駄踏んでいるかと思うと久しぶりに胸がすかっとする。
この選挙に対して、外国のかなりの有識者達が連名で辺野古移転に反対の声明を出している。
このニュースはネットの琉球新報の新聞から知ったのだが、本土の新聞は流さなかった。(と思う)。
声明には「沖縄への新たな基地建設に反対し、平和と尊厳、人権、環境保護のために闘う県民を支持する」と記されている。
そして名護市辺野古への普天間飛行場の移設中止と、同飛行場の即時返還の主張を明記する。とある。
国外からのこういう声明が出されることは非常にまれである。
これまでにもこういった事はなかったのではないかと思う。
声明には29人の名前が刻まれているが、アメリカ、カナダ、オーストラリアなど様々な国の有名人である。
自分の知っている人で言うと、ノーム・チョムスキー、ジョン・ダウワー、ノーマ・フィールド、ナオミ・クライン、マイケル・ムーア、オリバー・ストーンなどである。
よく言ってくれたと思う。
日本の有識者は何をしているのだと言いたくなるが、俺らのような一般人には、ああ外国の人たちの中にも沖縄をしっかり見ている人達が居るのだと心強く思える。
日本の有識者も刺激になっただろう。
全然知らんぷりをしていたわけではないだろうが、やはり行動が物を言う。
ハメリカも自国の中にあるいは世界には沖縄をしっかり見ている人が居るということや、
自国の政策に対して外国のことであっても反対者が居るということに認識を新たにしただろう。
それは少なからず外交政策に影響を与えた(与える)であろうと思う。
選挙は終わったが、辺野古問題は終わったわけではない。
ベアたちはごり押ししてくるだろうことは予想される。
これからが本番である。

140118 自発的隷従論3

昨日の②のことをもう一回私なりに解釈してみた。
つまり支配者の構造的悪というのは、一旦支配者になると、生来持っている自由という概念を俺は何でもしていいんだという横暴さに換えてしまって、圧政の道に走るということであろう。
そしてそれをさらに押し進めんがために、あらゆる手を使って手なづける。
すると被支配者は自らの自由を捨てて服従の道へそして習慣により自発的な隷従の道へいく。
圧制者が自らの力を民衆に知らしめ、力無く従わせるこのような姿勢をボエシは悪と断じているのだ。
そして支配・被支配が相互的に当然の関係のようになっていく。
ということであろうか。
さて次ぎ
③支配と隷従の相補的関係
②でも述べたように、支配・被支配が相互的に当たり前になっていく時、圧政は可能となる。
だから、圧政を崩すには被支配の側が、やーめたといえばそれで圧政は終わる。
自発的ということはそういうことである。
自発的に隷従しているから圧政があるのであり、逆にいえば自発的に隷従やーめたといえば圧政は終わるのである。
ボエシは暴力的に圧制者の排除を求めていない。
ボエシがいうのは消極的抵抗である。
でも見かけほど簡単ではないという。
圧制者はまず周りの何人かを取り込む。
そしてその周りの何人かはまたその周りに何人かを取り込む。
そしてまたその周りの何人かは・・・という風に圧政は構造的になっている。
階層化が生まれていくのだ。
中間層は、上位の者に剥奪される以上のものを下位の者から搾取する。
そうしてかれらは体制の変革でなく強化を望む。
だからこれを崩すのは難しいというのだ。
ボエシは共同体において「友愛」をもっとも重要な徳と見ている。
しかし、支配者と被支配者の間には「友愛」は生まれない。
だから支配者は孤独であり、結果として堕落した徳しか持たない圧制者となるのだ。

・・・ということだが、24ページに書かれているボエシの文章をここで引用する。
 「もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。
敵を突き飛ばせとか、振り落とせとか言いたいのではない。
ただ、これ以上支えずにおけばよい。
そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、自らの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。」
続く。

140117 自発的隷従論2

昨日の①について自分で読んでもわかりにくいので再度書き直してみる。
人間の本性には二通りある。
一つは生まれながらにしてもっているもの。
それは人間は生まれつき自由であるという本性。
そしてもう一つは習慣によって生まれる本性。
それでこの習慣によって生まれる隷従が怖いといっている。
すなわち父母等がすでに隷従の習慣を持っているとき、生まれた子も習慣によって隷従するようになってしまうという。
元々の本性である自由は、隷従という習慣によって小さくなってしまうというのだ。
先天的には自由だが後天的に隷従の罠にはまってしまうということだろう。
では次ぎ。
②一者による支配の構造的悪
支配者はいったんその地位につくと自由への志向を停止・喪失する。
そして自らの横暴を生まれつきの権限のように錯覚する。
民衆も隷従が自然と取り違える。
このような政治状態のとき、支配者と臣民は共に自然状態から離反している。
支配者は、あるものは選挙によって、あるものは武力によって、そしてあるものは家系の相続によって支配者となる。
ボエシは民主的に選挙で選ばれた者が一番最悪であるという。
そして圧制者はいかにして多数の人間を手なづけ隷従させるかというと、
一つは遊ばせるということ(遊戯)、具体的にはいわゆる飲む・打つ・買うの公共的空間を作り遊ばせる。
第二は口の快楽(饗応)でうまい物を飲ませ食わせ手なづける。
そして第三は誉め称える(称号)で何かのえらい役を与えて手なづけるというわけである。
これが服従から隷従へと臣下を導く手法であったという。
ニッポンや北ではおばかな人物が世襲みたいな感じで権力についているがまさに生まれつき支配するということが本性であると思っているのじゃないか。
それはボエシのいうとおり錯覚である。
選挙で選ばれたといっても正当な選挙ではない事が分かっていないのだろう。
だからたちが悪いのだ。
次ぎ③はまた続き。

140116 自発的隷従論

夜、また、社会科学の講座に行ってきた。
今回はフランス革命と日本の幕末・明治維新について。
講師先生の話は講談を聞いているようで飽きない。
フランス革命についても明治維新にしてもその後のありようについて「こんなはずじゃなかった」という気分になるような革命であったといわれる。
それは、起こした側からの思いであるが。
勝・西郷会談による江戸城無血開城がなったのは江戸を取り巻く地域の農民の力がそうさせたという説にはうんと納得。
また資本主義の発展における労働者の労働時間短縮の闘争は非常に重大なことであるということも是非胸に刻んでおいてほしいという訴えにも納得。
で、王制やらナポレオンの話と次に書く自発的隷従ということが少しつながって聞けた。
 
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530-63)というフランスの法官が書いたという「自発的隷従論」を読む。
作者16才頃の作とある。
別題は「反一者論」で政治哲学の古典とされつつあるとされる。
自由が人間の本性と認め国家における一者支配の弊害を説く論文とされ、歴史の節目節目に注目、援用、引用、言及されてきた。
ちくま学芸文庫のこの文庫本にはシモーヌ・ヴェイユのスターリニズム批判の論文として引用、掲載されている。ほかにも一人。
翻訳者、山上浩嗣氏による解題に沿ってラ・ボエシの中心論点を読み解くと次のようになる。
①人間の本性としての自由について。
ボエシは人間の本性は生まれつきのものと習慣化によって本性になるものがあると見る。
どちらかというとこの習慣が大きいという。
そしてこの習慣が自発的隷従の原因であるという。
つまり人間が自発的に隷従するのは、生まれつき隷従していてしかも隷従するようにしつけられているからだとする。
隷従に抵抗するのは生まれつきの本性である自由からであるが、自発的な隷従に至るのは習慣という本性なのである。
②③と次に続く。

140115 記者の思い



昨日の新聞のことで書く。
「原点思い出す県警察歌」という見出しで63年前に出来た警察の歌を紹介している。
鈴木政輝作詞で、警察学校では毎朝晩放送されるということだ。
通常は1番4番を歌うらしいが警察学校を卒業後は歌う機会はないらしい。
63年前すなわち1951年にできた。
憲法が公布されてから間もない頃だが、さすがその頃で憲法に対する思いが強い。
4番に
♪平和を祈る 県民の
あつき興望を 双肩に
ああ花薫る 憲法の
崇き理想を めざしゆく
・・・・
とあって新憲法のことを高く誉め称えている。
そんな歌を歌って警察官が警察官になったのだと思うとひどくうれしい気がする。
でも現在の警察官の一人一人がこの理想に燃えているかというと若干心許ない気もする。
しかしこの詩に込められた意味を知りその気概をもって職務に励んでほしいと強く思う。
「おいこら警察」がしばしば顔に出ることもあるのじゃないか。
一度そんな気分にさせられたことがあるから、警察に対してあまりいい感情を持っていなかったが、題にあるとおり原点をしっかりと思い出して2番3番に歌われているような民衆の友、人権の楯として、そして憲法の理想を高く掲げて職務を全うしてほしいと思うのだ。
この記事を書いた記者の思いはそんなところにあるのじゃないか、そのためにこの歌詞を載せたのじゃないかと思う。

140114 木を切る

快晴の気持ちいい日だった。
こんな日は、外で仕事がしたくなるのだが、しかし、家の中でもっぱら読書。
昨日、外で無茶苦茶力仕事をしたので、少し腰が痛くなりまた外で仕事をすると余計悪化すると思って養生したのだ。
一月なのに雪もなく外での仕事が出来るなんて珍しいことなのだが。
昨日は山の木の枝を払ったのを、太いのはチェンソーで切ったり、ほかのものは全部そのある場所から別の場所に移したりする作業をした。
それがなかなか重労働であった。
チェンソーも途中でチェンがはずれることが何度もあり工具で治したりしたので時間がかかった。
おかげでチェンソーの扱い方に慣れ経験値が増えた。
今日はそのチェンをヤスリで研いだ。
これも一つの慣れと経験値が増えた。
実はこの前、図書館でチェンソーの本を借りてきて少し勉強したところだった。
戦後、日本が建築ブームになったとき、チェンソーは外国から入ってきたのだそうだ。
スエーデン製とかドイツ製が有名で、その後国内でも作られるようになったらしい。
趣味で使う人もいて、チェンソーアートとかログハウス作りに活躍。
慣れないと危険なことも多くあの刃ではうっかり不注意で足などに当たったら大けがをする。
そのためのプロテクターなどもあるようだが高い。
実は木を切るという作業は好きだ。
面白い。
中学生の頃、親に連れられて山に入り、よく木を切った。
自分の切る木は太くても直径20センチぐらいだったのでそれほど危険なことではなかった。
何本も切り倒し、倒したのを適当な長さに切りそろえ薪にする仕事だった。
そして切り倒したあとの山は春になったら植林をする。
そういう作業を親は何年も続けていた。
その結果が山は黒々、春には花粉症到来となってしまったのである。
この木を植えたら自分が大人になってだいぶん立つと1本1万円とか2万円あるいは10万円になると言われて植林したものだったが、木の価値は輸入に押されて下がるばかり。
今では間伐材はほったらかしだし、木を切っても手間賃に消えて手取りの収入は涙程度らしい。
なので余計山は荒れる。
あの木がほんとに言われたように何万円もするものになったら今頃じゃ・・・・・
という夢物語になってしまった。
しかし当時、山に入って仕事をしたその経験は多分他の面で生きているだろう。
もう少し体力があったらほんとに山に入って間伐などの仕事をしてみたいと思う。

140113 武器

夕方ウォーキングをしている。
アイポッドで音楽を聴きながら歩く。
ジャズもクラシックもそして最近歌謡曲も入れた。
歌謡曲は藤圭子のCDを買ったので入れた。
唯一これだけが歌謡曲。
といってもジャズ系で日本の歌手で酒井俊(さかいしゅん)という女性の歌も入っているが。
今日は聞いていたらこれまで気がつかなかったいい曲に巡り会えた。
これまでも聞いていたのだが、いいところを聞き逃していたのだろう。
それはキース・ジャレットの「The out-of-Towners」(ジ・アウト・オブ・タウナーズ)という曲。
19分ちょっとの長い曲だが瞬間的に美しいメロディが現れる。
即興で弾いているから、彼がいわゆる天から降ってくるようにそのメロディを紡ぎ出したのだろう。
いいメロディはリフレインするとさらによくなる。
やっぱりキースはいいなあと思ってしまう。

奴らの暴走ぶりは相変わらずだが、今日は新たなことを知った。
オスプレイを17機買う予定は前にも書いたが、そのほかに水陸両用の戦車みたいのもあつらえることにしたらしい。
これは専守防衛のためのものとは考えにくい。
実際はハメリカの海兵隊が使うものと同じで防衛どころか攻撃用のものである。
海上からこれに乗って上陸しそのまま攻撃用の戦車となるのである。
もちろん国の予算で買うのだから俺等が出した税金である。
予算委員会に出して議論をして買ったのでない。
勝手に予算化して買おうとしているものである。
そんなものを買うのはヨサンかい、と言いたくなる。
武器のことで言えばこの前韓国軍に1万発の銃弾を供与したと威張っていたが、韓国軍は返却してよこしたとか言うニュースもあった。
戦争がやりたくてやりたくてたまんない奴らなのだろう。
だうにかせねば。

140112 act localy

O嬢の物語やハメリカの話のついでにもう一つ。
やはり中学生の頃、今と違ってネットなどがある情報社会じゃなかったから、得てしてそういう情報がたくさんあるところといえば図書館だった。
あるいは大人の読む月刊誌で明星や平凡それになんとかという女性向け雑誌があった。
図書館でいうと、一番よく読まれたり見られたりしたと思うのが、平凡社の百科事典。
それの生殖器というところが男子中学生の一番見る項目だった、のではないか、と思う。
その項目のページは手あかで汚れて黒かった。
そして女性向けの雑誌では、ドクトル・チエコという人の人生相談みたいの。
人生相談といっても結構あちらの話が多かった。
昔は戒律?厳しく結婚前の交渉はダメーだったので、ヤッチャッタ人の相談みたいのがよくあった。
がどちらかというと病気の心配みたいのが多かった。
であるとき初夜のときどうするのかという話が出ていて、どきどきわくわくして読んだ。
結構微に入り細に入りで、えーこんなことするのーとびっくり、鼻血が出るくらいであった。

それはともかく拡大解釈か何か知らんがまたまた暴走し始めた。
集団的自衛権を認めると。
不戦の誓いはどこへやら、積極的平和主義でどこにでも行ってどんぱちやっちゃうよというわけである。
で、話は変わるが秘密保護法について可決したあとでも結構たくさんの地方議会が反対表明・決議をしていると新聞に出ていた。
ローカルの力である。
残念ながら我が地元にはそんな空気はない。
小選挙区制でしかも憲法違反で選ばれた奴らのすることに従うことはほんとに馬鹿らしい。
それより地方であるいくつもの多くの議会がまともに動いたらちょっと空気は変わるのではないか。
もっとローカルに目を向けよ、と片山善博氏が言っている。(世界2)
大阪や名古屋みたいなポピュリズムもかなわないが、まずは首都。
そして名護。
そして地元をもっとどうにかしたい。
アマちゃんでないがGMTである。

140111 無無無

昔のことを思い出した。
中学生の頃、先輩が、おい知ってるか、と教えてくれた卑猥な歌?
「ニッポン、ハメリカ、ニギリス、トレントレン」といった。
右手の人差し指を一本(ニッポン)出して、左手の親指と人差し指で輪を作り、その中に右手の人差し指をつっこんで(ハメリカ)、握って(ニギリス)、とれない(トレントレン=ソ連)というわけである。
それで、どうやおもしろいやろとみんなに広めたら、次に新しく違う国名を付け加えて考えてきたやつがいる。
「ニッポン、ハメリカ、ニギリス、イタリア、トレントレン」。
イタリアは痛いということである。
いかにも痛そうな顔していうのでおかしかった。
そしたらまた考えたやつがいて、いくつかつながって多分最終的には、
「ニッポン、ハメリカ、ニギリス、イタリア、トルコー、トレントレン、インドー」
トルコはとるぞと思って無理に引っ張ろうとする。
インドは気持ちよくていいぞーインドーというわけである。
最後にパッキスターン、ペキンと言って折れた真似するやつもいた。
なんとも、想像力たくましい中学生だった。
そんなんで一種のはけ口化していたか。
おぼこいモンである。

それはともかく、無気力、無関心、無責任の3無主義というのがあったが、
今は、興味がない、関係ない、分からない、の3無運動だと谷口真由美さん(「世界」2)が言っている。
この3無が善良な市民にあると。
そして、今の少ない投票率で一党独裁みたいな政治状況を作ったんではないかと憂いている。
この3無をどう切り崩していくのか、無気力、無関心、無責任を切り崩すことも難しいが、こちらも難しい。
しかし、茶色い朝となってからでは遅い。
谷口さんは「秘密保護法って知ってる?」と300人ぐらいに聞いたが、やはり知らないといった人や知っていてもその危険性までも知らず、あるいは自分たちには関係ないと言ったり、どこの国にもあるスパイ防止法みたいなものだからいいじゃないかと言ってみたりと本質を知らないことが多いと。
憲法についても同じで興味ない関係ない分からないが多いと。
しかし、学生たちの八割以上が政治に興味はあると答えたと、それが希望であると。
上から目線は捨てて、下から目線で民主主義を考え続けよ叱咤激励していると言っている。
・・・・叱咤激励するのだ。
待っていてはだめ、こちらから問い続け、意識付けなければいけない。
とすれば、こちらもそれなりに、今の状況を正確に詳しく分析し認識することが必要である。
1に学習、2に学習である。

140110 性的な

ホイットマンの「草の葉」のことを書いたが、ネットで見ていたら、彼がそれを初めて出したとき、その内容に性的なことが含まれるので発禁処分みたいなことになったと書いてあった。
自分がそれを読んだときは全然そんなことは気づかなかったのだが、版がかさむうちに無くなっていったのだろうかとも思うのだがどうなのだろう。
おぼろげながら覚えていることはなんだか堅苦しくて感興が湧かなかったことぐらいか。
人間はやはり本能的にか性のこととなると俄然興味が湧く。
食べることもそうだがやはり本能がそうするのだろうか。
現場にいたとき、子どもたちに何か話をするとき、食べることに関する話をすると目を輝かせる。
たとえば自分が子どもの頃はこんなものを食べていたとかいうようなこと。
食べるものがなかったので、山や原っぱに行ってこんな草や木の葉っぱを食べたとか話しすると、身を乗り出して聞いた。
同じく少し性的な話をしても同じだった。
そういうことは先輩の教師が教えてくれた。
あるいは自分の知っている無茶苦茶専門的な話をすることも同じくよく聞いた。
ビートルズの話をよくした。
それに絡んで彼らのアルバム「リボルバー」の話。
リボルバーという銃の話。
その構造の話や作った人のこと、使われたときとか、そして話が飛んで坂本龍馬の持っていた銃とか幕末のガトリング機関銃とか。
戦争の話もよく聞いた。
と話は飛んだが、あるとき女の子(中学生)が「O嬢の物語」という本を持っていたのでびっくりしたことがあった。
これぞ性的な話の満載みたいな本なのだが、(自分はそのときには読んだことがなかった)、少し借りて読んでみたらいやいや女子中学生がこんな本読んでおもしろいのかいなと思った。
早熟だったのだろうか。
どこからそんな本を見つけだして持っていたのだろうか。
そして読んでみてどんな感想を持ったのか。
聞けずいたが、いつか偶然にでも会ったら聞いてみよう。

140109 electric

weather reportというジャズ・コンボがある。
あると言うよりあったといった方がいいか。
二人のリーダーのいるバンドだった。
一人はジョー・ザビヌル、もう一人はウェイン・ショーター。
どちらもマイルス・デイヴィスのバンドに在籍した。
マイルスのin a sirent wayはザビヌルの作曲。
ザビヌルはその後バンドを離れて独自のバンドで活躍した。
そして近年他界した。
で、マイルスのビッチェズ・ブリューという超有名なアルバムのあとに、彼らが最初のアルバム(バンド名と同じアルバム名)を出した。
ビッチェズ・ブリューも衝撃的だったが、ウェザー・リポートのその最初のアルバムも衝撃的だった。
かなり現代音楽風のできだが、ジャズという音からは新鮮な響きがした。
その後いくつかメロディのポップな曲を出しヒットした。
2作目のアルバム名は"I sing the body electric" という。
このタイトル名はどういうものかずっと知らずにいたのだが、あるとき詩の本を読んでいてそれに出会ってしまって自分なりに衝撃的な出会いだった。
その本はウォールト・ホイットマンの「草の葉」という詩集である。
その中にたしかに"I sing the body electric"という文があったのだ。
まさしくelectric 電気が走ったような驚きだった。
ああ、ここからとったのかと思ったのである。
当時のレコードのライナー・ノーツには書いてあったかも知れないが、見落としていた。
今ネットで見てもそのことは書いてある。
この詩集は1855年に書かれている。
その当時電気はあったのか。
多分無かった。
だとするとホイットマンのこのelectricの意味は何なのか。
「私は歌う体が電気のように」となるのか。
英英辞典を見るとelectric の意味は full of excitement; making people excitedとある。
なのでこの場合からだがかなり興奮して歌う、か、体が人々を興奮させて歌う、ということか。
つまりelectricというのはびりびりするほど興奮すること、だろう。
私はびりびりと体がするほど興奮して歌う、というような意味になるのだろう。

1980年頃にweather reportのライブ演奏を名古屋で聴いたことがある。
当時ベーシストのジャコ・パストリウスが入ったばかりの頃だったが、通称ジャコ・パスのその演奏も結構見応えがあった。
彼はアルコール中毒でその後死んじゃったが、あの生の姿を見たことはドーダである。

140108 詩

ファーリンゲッティをネットで調べてみたらまだ存命みたいであった。
1919年生まれだから、現在95歳。
1975年にあったときは56歳と言うことになる。
YouTubeも見てみたらやはりあった。
UCBerkleyでのランチタイムの詩の朗読会で詩を読んでいらっしゃる。
2007年ぐらいのものみたい。
90歳ぐらいと思えないかくしゃくぶりである。
1975年ぐらいに流行っていた?アメリカの詩人はやはりゲーリー・スナイダーGary Snider。
カリフォルニアのどこかの森に住んでいたりして詩を発表していた。
日本の沖縄周辺の確か諏訪之瀬島かどこかに住んでいたこともあったような気がする。
都会の機械文明的なものを逃れて田舎の自然派的生き方を詩にしていたのだった。
というような気がする。
谷川俊太郎もその当時のはやりだったが、アメリカの谷川俊太郎みたいな感じだったかも知れない。
多分二人は親交があったのだろう。
と思う。
と、あまり自信のない書き方だが何せ昔のことなので。
City Lights Bookstoreを訪ねたのは詩の本専門店ということで少なからず日本の詩人たちや欧米の詩人たちに興味を持っていたからである。
アメリカの詩人といえば、ホイットマンやフロスト、エミリー・ディキンソンなど、そしてギンズバーグなどのビート詩人だったが、まだあまり原文では読んでいなかった。
で、City Lightsに入ってみるとあるわあるわ知らない詩人たちがいっぱい。
で、ビート詩人やその後の詩人と言うことでジャック・ケラワックやウィリアム・バローズ、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、エズラ・パウンド、ゲーリー・スナイダーなどの詩集を買ったのだった。
よく思い出したな。
ホイットマンも買ったかも知れない。
しかし、さえない頭を駆使して読んでみるが、あまりぱっと来なかった。
日本語の詩を読むように言葉になぜだか詩的な雰囲気を感じるのが難しかったのだ。
ギンズバーグのHowlはHoly holy holyとかいって言葉にリズムや音楽性みたいのがあって少しは楽しめたのだが、そういうのが無かったのか語学力のなさか、詩的な感興があまり湧かなかったのである。

140107 Howl

もうギンズバーグなんて誰も覚えちゃいないだろうな。
と思うんだが。
あの"Howl"を書いた詩人である。
日本語に訳した諏訪優さんは「吠える」と訳した。
40年前は全盛だったが、それより以前さらに10年前ぐらいはさらに全盛。
あのヒッピー運動、ベトナム反戦時代だ。
社会から「ドロップ・アウト」して反戦運動をするというのが当時のトレンド。
ヒッピーがサンフランシスコから始まったのはご存じの通りだが、詩人たちが大きな影響を与えたし、当時の音楽であるフォークがまた大きな影響を与えた。
ウッドストックのフォークとロックの音楽はその当時の状況をよくあらわしている。
1975年にサンフランシスコに行ったとき、コロンバス通りにあった小さな本屋「シティ・ライツ」にいった。
チャップリンの映画と同じ名前である。
そこは詩集ばかり置いてある店でもちろんギンズバーグなどビート詩人の詩集もあった。
日本人の詩集で訳されたものもあった。
オーナーはローレンス・ファーリンゲッティという人。
この人もギンズバーグなどと同世代であり、かれも詩人で詩集を出している。
で、ここでファーリンゲッティの詩集を買ったら、レジ係りがファーリンゲッティがいるというので地下の別室に連れて行ってくれた。
名前を言ったらその本にサインをしてくれた。
ちょっとどきどきしたが、そのときは好々爺然とした人で親しみを持った。
現在ネットで見るとシティ・ライツcity lights bookstore は大きくなって当時の面影が無く近代的な建物になっている。
ファーリンゲッティferlinghettiもネットで見ることができる。
もういくつぐらいの歳になったのだろうと思う。
「月に吠える」から連想して「吠える」とファーリンゲッティの話になった。

140106 上弦の月



森を抜けながらふと見上げたら月が出ていた。
上弦の月だと言ったのはチャイナの人か。
この月は満月に向かおうとしているのか。
弦がやがて無くなり満願となる満月。
膨らんでいく月に幸運や希望を託し願いをかけた古代。
光が増えて明るくなっていく様は確かに希望が叶うさまに似ている。
この過程の初めと終わり。
新月と満月。
新月には希望が宿り、満月には諦感が宿る。
私の現在は満月から新月の時代なのか。
そして私の周りの現在はどの時代なのか。
新月に近いのではないか。
いわば絶望に向かっている。

月に吠えるの詩人を忘却した。
・・・
竹、竹、竹、竹が生え
・・・
おわあこんばんは
・・・
ぬすっと犬めが・・・月に吠える
・・・
と、これくらいしか思い出せない。
萩原朔太郎も上弦を見たか。

140105 永劫



また森へ行く。
おやおやまた鹿の静かなお出迎え。
森の主に見放されたのか、自らの意志なのか。
誰も気づかない中で静かに逝ったとみえる。
もう時間はかなり経っており骨さえ見える。
そのあばらの骨の白いこと。
その中で生が営まれ、空気と水と物質の循環があったのだ。
今度は土に還って新しい循環を作り出してくれるだろう。
森に抱かれていた君は森に還ったのだ。
動物と人間に差別無く命があるとするならば、
何億分の1の人間の命が見届けたのだ。
何億分の1の鹿の命が森に還るのを.
だがその命は紛れもなく億にも匹敵する大きな1としての命であった。
そして今日のその日は永劫分の1の一日であった。
永劫分の1の時間が永劫を作る。
一つの瞬間に永劫が宿るのだ。
森は永劫である。
鹿も人も永劫なのだ。
永劫の森に冬の風が吹き渡った。
冷たい永劫だった。

140104 シティ・ウッド



今日も森に行く。
メガシティのビルの森。
乾いた森に山颪(おろし)が来てからころと物達を蹴散らす。
人々は足早にビルの森に消える。
吐く息はビルの窓に張り付き、銀箔のガラス壁となる。
白銀のビルの森。
自動ドアの内側は自動暖房。
ビルは発熱し膨張する。
膨張するビルの森。
縦横に走る道の川。
川を流れる車も白銀に染まり膨張する。
どこへ向かっているのか。
何が目的なのか。
無目的に見える車の流れは止まらない。
血流のように流れているのだ。
林立し乱立し雑立するビルの森。

ドンと机に頭を打ち付けた。
そのとき、森は崩れた。
・・・夢だったか。
メガシティからメールが届く。
シティの森は田舎の森と近いじゃない。
今度遊びに行くよ。

140103 声

森の人というのはつまり森そのもののことである。
今日も森に行く。
シーンとした森の音。
二つのシーンという音が互いに交感している。
シーンという無音の音。
そしてシーンという有音の音。
それは死者の呼び声。
小さな小さな声でかすれた音を発しているのだ。
嘆きの声なのだろうか。
怒りの声なのだろうか。
声と声が絡まって交感し増幅しやがて無音の音となる。
死の時間、死の歴史の中で音が結実し森となるのだ。
逆に言えば生の時間、生の歴史の森なのだ。
あるいは生の時間、死の時間の交感の場としての森である。

道ばたでたぬきの死骸を見た。
暗がりの中でヘッドライトの照射を受けて目がくらんだに違いない。
キミもまた森より出でて暗闇の奥に光を見たため召されたのだ。
光に召され闇に召されて天空へ消えていった命。
森はまたその命を無音の音に変換した。

いま梢を吹き渡る風の音。
いま枝先や葉先から落ちるしずくの音。
その現実の音に森は落ち着きを取り戻す。

140102 寒風に立つ

s-冬木

鹿を見た。
死んでいた。
引き返す途中に網にひかかったのだ。
眼をぎょろりとむいて、舌をだらりと出していた。
もがけばもがくほど巻き付く網。
首周りにぐいぐいと食い込んで息が出来なくなった。
人間の世は怖いのだ。
この寒風の下、一つの命が絶えた。
見上げると突き刺すような木々の梢。
青空の冷たさが眼を射る。
この青空に鹿の命は逝った。
森を出でて森に帰るその一瞬に逝ったのだ。
鹿の命(いのち)よ。
森の命(みこと)よ。
森は鹿の命を抱いて青空に返したのだ。
・・・・・

それはともかく「森の人」と言うのは、大江健三郎のテーマだったか。

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