383 弛緩と緊張

昔、若かった頃、この年度末の5日間くらいは、一種の脱力感と解放感に満たされていた。
身体中から力が抜けていき、ふわふわと身体が浮いているような感じだった。
1年間の仕事という緊張感から解き放たれた時間だったのである。
あの数日間が一番自分らしさを取り戻したような日々でもあったような気がする。
と共に一種のブルーな気持ちにもなった。
今は年度末といってもそんな日々は持てない。
そういう気持ちになったのは、自分が何かに働きかけて働いているという対象があったからであり、その働きかける何かの喪失ということで解放感やブルーな気持ちが生まれたのであろうと思う。
自分の場合その対象物とは子どもであった。
あるいは学級という集団であった。
大きなスパンで見れば、現役を退いた後の今の時間は年度末と同じであるが、脱力感も解放感もない。
退職した1年ぐらいはあったかも知れないが今は慣れてしまって格別の感慨はないのだ。
やはり対象物がないからであろう。
田んぼや畑や、地区の役ぐらいでは対象が全然ちがうのだ。
でも、弛緩と緊張はやはり人間の成長にとって大切なものであると思う。
年度末という期間限定でなく、日々の暮らしの中でそういう繰り返しはないことはないがやはり現役の頃と比べるとその重みというか身体に感じる気分の大きさや質感はだいぶん違っている。
仕事はするがほどほどにして、趣味や好きなことを通して弛緩や緊張を味わっていきたい。
スポンサーサイト

382 西脇詩



375と378で取り上げた西脇順三郎について。
CHAPBOOKのKensington Idyll(ケンジントン牧歌)のページの右側には写真のように人物画が描かれている。
これは左肩に署名が見えるが、西脇の名前が書いてあるのか、描いた人の名前が書いてあるのか判然としない。
しかしこの人物画は西脇の似顔絵である。
長い顔が特徴的。
ほかにも、なんだかつんとした感じなどは西脇によく似ている。
非常にうまく西脇の特長をつかんで描いていると思う。
年取った時の顔はもう少しふくよかな顔だがこの若いときの顔は精悍な顔をしている。
今年は西脇生誕120年である。
かつてノーベル文学賞の候補にもなったことがある。
日本の詩人の中で生前はダントツの世界に名の知れた詩人だったということである。
しかし内実は知る人ぞ知るというか、一部のマニアや詩人といわれる人の間ぐらいで名の知れた人であった。
一般には西脇の詩は難しくて分からないとか言われて好まれるタイプの詩ではなかった。
シュールレアリスムのおもしろさが分からないとほんとに面白くない。
しかし、いったんそのシュールさというか言葉のおもしろさが分かるとはまるのだ。
で、エズラ・パウンドの推薦を得て候補になったが、落選ばかりだった。
谷崎潤一郎も候補だったが落選。
後日談があって、ノーベル文学賞の候補になるにあたっては、やはり裏話があって、金銭的なやりとりがあったみたいである。
ほんとか嘘か知らないが、ファンとしてはそんな裏話などは無くて純粋に素晴らしい詩人として候補になったり、実際に受賞をしてほしかったと思う。
亡くなったあとの今となっては、名前は消えていくばかりであるが、もし受賞をしていたら、日本の詩壇はもっと変わっていたかも知れない。
いずれにしても詩は詩として後世に残る。
ファンとしては、それほど知られなくても関係ない。
純粋にその詩のおもしろさを時たま開いて楽しめればいい。
と思う。
ネットを見ると西脇マニアは結構いるみたいで、ツイッターで彼の詩の一部を毎日流す人もいたりする。
あちこちから文を拾っているがこれだけ見ても面白いと自分では思う。

381 右と左

作家の中でも右や左があって主張がある。
鮮明にしない人もいるが逆に鮮明にする人もいる。
左派の人は置くとして、右派の人は鮮明にしたらあくまで鮮明である。
初めから右か左の一つの人もいるが、右から左へ行く人とか逆に左から右へ行く人もいる。
いわゆる転向。
そんな一人に長部日出雄がいる。
左から右である。
オール讀物2では、あの「永遠の0」をべた誉めしていた。
そして、○○の一般参賀についてどうのこうのと書いていた。
近頃は○○に傾倒しているらしいのだ。
オール讀物では彼は映画に関わる連載をしているのだが、3月号では「小さいおうち」を誉めそやしていた。
彼のアンテナでは「小さいおうち」は、左も右も引っかからなかったらしい。
それはそれで結構なことだし、あの映画は左がかっているとか右がかっているという見方はできないものかも知れないし、実際そのようである。と思う。
そして彼はこのような見方をする。少し抜粋。
「・・・戦前は決して暗いだけの時代ではなく、多くの人が結構のんびりと構えていたのに、何時の間にか突如として戦争が始まり、惨憺たる悲劇の時代へ突入してしまったのだ。この映画は、かつての誤謬を繰り返さないための示唆が随所に鏤められていて、、前車の轍を踏まないために、今のわれわれがもっと敏感になり、より深く考えなければならないことが数多くあることを静かに伝える。・・・」
ここを読むと、しごくもっともな感想、見方でありうなづくことができる。
そこには右も左も感じないたぶん普通の感じ方が述べられている。
べた誉めした「永遠の0」は、うがった見方をすれば右派の喜びそうな戦争を賛美とは行かないまでも否定しきっていないところがあったのじゃないか。
それに対して「小さいおうち」は、彼も言うように、時代に対して敏感になり深く考えなければならない、それは戦争にならないようにするためである。
とすれば彼の鮮明にしたはずの右は少しおかしいのじゃないか。
と思ったけふこの頃だった。

380 命と労働

花粉のピークらしい。
目がずるむけるほどかゆい。
早く杉去れ3月4月。
今日は籾をふやかした。
いよいよ田んぼの始まりである。
新しい命を育てるのだ。
そしてその命で命が繋がっていく。
寿とは命のこと、繋がる命は無量寿という。
阿弥陀というのは命のこと、すなわち無量寿だと今夜親鸞の学習会で聞いてきた。
命とは自分一人の命でなくて過去に繋がる命であり、未来に繋がる命であり、自分はその命の中に生きているのだ。と。
一粒の種が100個以上の実となり私の命の中に入って私の命を永らえる。
命を戴いて命が永らえていく。
それはまさしく有り難いことだ。
一粒の籾によって永らえる命。
命を懸けて(懸命に)育ててやろうと思った。
労働は命を守り命を作り出す行為だ。
懸命に無駄なくやっていこう。
と久々に宗教的観点から命と労働を考えてみた。

379 戦後か戦前か

今日のメインは同和の学習会。
県の重鎮が来て教員相手の学習会だったが誘われて参加したのだった。
戦後を戦前にしないためにというテーマで講師が話をしてくださった。
まさしく今や戦後と言うより戦前に近い状況になりつつある。
それをふまえての話で戦後の民主化とまたその反動の歴史的流れを具体的に語ってくださったのだった。
梅原猛氏は新聞の投稿で「いつか来た道」という題で現状を憂えている。
現憲法と自民党案の憲法比較、教育基本法比較、教育勅語、竹富島教科書問題、教育委員会制度問題、道徳の教科化、秘密保護法問題、集団的自衛権問題、メディアの右傾化のことなどなどをもとに自由討論、感想意見という流れであったが、2時間枠では収まらないほどだった。
こういう会議は後になるほど盛り上がり、時間が足らなくなる。
現場の教師達としてはぽんぽんと現政権の危うさの指摘や批判的な言辞が出るので、どう思われたか知らないが刺激的であったことだろうと思う。
同和は人権の問題であるが、人権の最大の抑圧は戦争であることからすると、歴史の流れ、政治の現状を分析し、平和と戦争について考えることは大事なことである。
BTW(BY THE WAY =ところで)台湾の国会の学生による占拠問題のことについて、内田樹さんのブログで最近の実情が佐藤学氏から寄せられている。
台湾の市民の70%とか80%以上が学生達の占拠を支持しているらしい。
そして台湾全土の大学で学生達が立ち上がっている。
大学の学長や教授達も多くが学生達を支持しているとも。
なかなかやるじゃないかと思うが日本のメディアはそのことを伝えていない。
日本の70年前後の学生運動に似たものを感じるが、閉塞感と無力感と似非自由感が漂う現代の日本の学生や青年にとってかの国の学生の有様はどう映るのだろう。
と思ふけふこのごろである。

378 ケンジントン牧歌



写真は375で取り上げた西脇順三郎の詩。
見にくいかも知れないが、2行ごとに脚韻が踏んであるのが分かる。
西脇順三郎全集は、合計3回出ているが、自分の持っている2回目に出されたのにはこの原詩は掲載されていない。
多分見落としはしていないと思うが。
しかし、それを訳したのは掲載されている。
訳者は西脇に造詣の深い新倉俊一氏である。
その訳された詩を見ると、それほどシュールな感じはやはりしない。
するとすれば「なんと俺は巨大なシトロンの森だ」なんてところか。
しかし全体を貫く詩の雰囲気は西脇のその後の詩と似ていると感じる。
言葉の結びつきを、遠いものを近くに、近いものを遠くにという方法がシュールさを出すと彼は言っているが、まさしくそういう方法がこの詩でも用いられている。
日本語で感じるそのシュールさと英語で感じるシュールさはやはり感じ方が違う。
ネイティブに近い感受性(いわゆるぺらぺら、バイリンガル程度に理解できる)があるならばたとえ英語であってもそのシュールさは感じられるだろう。
いかんせんそこまで行かないものとしては英語でシュールを味わうことは難しかった。s-DSCF8692.jpg

377 卒業式

小学校の卒業式に行って来た。
今や僻地の学校並みで卒業する児童はたったの1名。
しかし来賓の数は20数名。
市長も今年はここが番とみえて来ていた。
ひのきみはあったが、証書授与などはステージを使わず演台を下におろしそこでやる。
市長の祝品授与は演台からの対面式でなく演台の前で平行に行った。
市長の上から目線でなくという意識が感じられてグー。
全校では11名のほんとに小さな学校になってしまった
子どもたちは少ない人数で個性を伸ばしている。
卒業する児童は一人で答辞に当たる言葉を長々とよく話した。
送る子どもらもどの子も大きな声で話し、歌声も強弱やハーモニーまでつけて大きな声で歌えた。
少ない人数というのは一般的に考えれば多人数の場合より一人一人の出番や分担が大きくなり、責任もそれだけ大きくなる。
学習での発言も多人数の場合よりも数倍多くなる。
引っ込み思案なんて言っておれず容赦なく出番が来る。
自分の時はクラス45名だったので、引っ込み思案で意見もろくに言えない有様でいまだに人前で発言するのに勇気がいる。
今日の子どもたちのように少人数の中にいたらこのような性格も直ったかも知れない。
でもしかし、やはりメリットもあるがデメリットもある。
ほんとの集団の力を味わえないだろうし、集団でこそできないことがスポーツでもそうだがやはりいっぱいあるから。
ともあれ、荒れた学校や荒れた子どもたちのことを耳にするに、田舎の複式学級のある学校じゃそんなことは起こりえないだろうと思ってしまう今日の卒業式だった。

376 検閲

図書館戦争シリーズの2巻目、3巻目を読んだ。
奇想天外、荒唐無稽の想像力だが、3巻目を読んでいて急にがっくりして読書意欲が減退した。
検閲する側と検閲阻止側との重火器を使ったいわば内乱場面が出てくる。
これは1巻目から少しは想像できたことだが、3巻目になってその描写が非常にリアルになってまさに戦闘なのである。
図書館を舞台にドンパチが始まり主人公が撃つことの怖さ、いたたまれなさ、呵責に耐えながら発砲をする。
それが現実的な身の回りで行われるということにふと心が動いたらがくっとなったのである。
それから読む気が失せていった。
3巻には「無抵抗者の会」という会が出てきておっと思わせるが、中身は検閲する側の回し者がいたりして、物語り上は単なる刺身のつま程度の役割でしかなく表舞台には出てこない。
ということでこの物語は全4巻まであって、人気が出たため追加で2巻が出て全6巻ということになったが、もう読みたくなくなった。
ただ、検閲に対して批判的で、それをする者には反撃をする、反対をするという主張がテーマであり、図書館の自由に関する宣言をベースにしているということはいい。
主人公等の会話部分は強烈なユーモアがあっておもしろいし、文章もきびきびしていて読みやすい。
障がい者を登場させてその持っている問題を訴えたり、差別語について問題提起みたいなことをしたり、検閲ばかりでなく現代の諸問題(おおげさ?)にもアプローチしているところはさすがといえようか。
「床屋」が差別語だとは知らなかった。

375 西脇順三郎



少し前にネットから大変貴重な本を手に入れることができた。
CHAPBOOK第39号という1924年に発行された本である。
どこが貴重であるかというと西脇順三郎のおそらく初めて世に出た詩が載っているからである。
西脇は1922年ごろに渡英し留学するが、そのときに英語で発表した初めての詩が載っているのだ。
しかも、T.S.ELIOT(T.S.エリオット)という今では世界に知られた有名な詩人の詩も載っている。
西脇はそのころラテン語でも書いているし英語でも書いているしフランス語でも書いている。
言語の達人だった。
日本に帰ってきて1933年に日本語(厳密にはラテン語なども入っている)による第一詩集「Ambarvalia」(アムバルバリア)を出した。
このCHAPBOOKに載っている詩は 「 A KENSINGTON  IDYLL」という題が付いている。
「ケンジントンという田舎の詩」という意味だろうか。
それぞれ2行にわたって脚韻が踏んである。
帰国してから後の詩にはかなりシュールな感じの詩を多作してシュルレアリスムの大詩人となっていくのだが、この英語の詩にはあまりそういうところがないような気がする。
しかし、自分の感受性の間違いで少しはそのシュールの芽生えがあるのかも知れない。
このCHAPBOOKは40号まで出ていて39号のみに西脇の詩は出ている。
古本屋で検索すると驚くことに日本でもその40号全巻が出ていた。
しかしやはりかなり高い。
もう一つ驚くことにこの39号だけがない1巻から40号までのそろいも出ていた。
やはり1巻だけでもないと価値は下がる。
だが、西脇詩を好む者にとってこの39号は特別に意味のあるものであり、手に入れておきたいものであろう。
たまたまネットを見て手に入れられたがやはり少し高い買い物だった。

374 誇大暴走

このブログ、だいたい夜の9時以降に書いている。
遅いと11時過ぎ。
昨日の記事は誇大妄想気味であった。
夜に書くと気持ちが大きくなって思わぬことを思いついたり考えたりする。
現職の頃よくそんなことがあって、夜、明日はこんなことをやろうと思って、いざ次の日になると、何だかしぼんでしまってそんなことはやる気にもならなかった。
昨日の記事も同じようなものだがそれでも少しは抑制しているのかなと思ったりもする。
誇大妄想したものをそのまま実行すると暴走気味になるのだろうと思う。
現在、誇大妄想を恥ずかしげもなく暴走しているのは彼である。
民放の某番組に出てみたり(ばっかじゃないの)。
一番怖いのは3権分立の意味を知らなかったり、立憲主義を知らなかったりして独裁を独裁と知らずに突っ走ろうとしていることである。
意図的だとしたらなお怖い。
自党内でその無茶ぶり(集団的自衛権を無謀にも政府で決めるというやつ)を指摘されてもなお突っ走る。
ブレーキになっていない。
なおテレビはやはり息のかかった者が入ったせいかぶれてきた。
その党内の諫める意見を取材したものをニュースで出していたが、諫める側は一人だけ、持ち上げる側は3人と明らかに偏っていた。
そして、論戦をしている場面のニュースでも質問する側は少しだけ、だけど彼の答弁は長々と取り上げる。(このことは誰かが言っていた)
早く倒さねば。

373 スト

久しぶりにスト=ストライキのニュース。
相鉄のスト。
24時間ストだったようだが、すぐに解除した。
近年ストライキという手法がほとんど聞かれなくなってきた。
1970年代が一番ピークだったみたいでそれ以後激減したみたいである。
「労資協調」「スト無し一発回答」という言葉ができてそれ以来だろうか。
総評が崩れ連合ができて弱腰になってしまった。
労働環境の変化と共に労働組合員の数の減少もある。
いわゆる組合の強者(つわもの)だった世代も退職してしまって華やかだった頃の組合の姿を知らない世代が多くなってしまった。
それにやはり数の減少とともに、政治に対する関心も減少した。
派遣や非正規社員、アルバイト、フリーターなど労働環境が悪化して安定していないのが大きい。
大学生の政治参加も醒めたものである。
そういえばおとなり台湾の学生達の国会の占拠はひところ(1960年代~1970年代)の日本の状況と同じである。
ああいう情熱はどこへ行ってしまったんだろう。
この格差社会と貧困問題を見たとき、99%にあたる層の大同団結と大規模デモと大規模ストライキは非常に敵にとっては驚異となり変革の一歩となりうると思うのだが、どうだろう。
誰か音頭をとるものはいないか。
ときには理性に働かせるより感情でいったらどうだろうと思うのだ。
だが、上から目線でなく現場の若いモン達がやらんことには始まらないしとも思う。
もうそのことは前から思っているが、なかなか機が熟さないのか、誰も動かない。
こうなったら老いぼれの老人爺婆が昔取った杵柄で火をつけるかと思ったりもする。
爺婆連合は時間があるし暇もあるしやろうと思えばやれるだろう。
でもやっぱり困っている当事者が動かないことには意味がない。

372 慈雨

一雨一雨春に近づく。
花粉と雨で外に出られず読書。
そして久しぶりに音楽を聴く。
といってもアイパッドでユー・チューブから聴く。
この頃どんな曲でも検索するとユー・チューブで聴ける。
場合によってはコンサートやライブ映像などで動画で聴ける。
どんな曲でも聴けるということが驚く。
まずマイルス・デイビスの SO WHAT
これは放送局のテレビ録画で、レコードに録音されたものとは違う。
レコードのものより、格段に素晴らしい演奏であり、アイパッドに落としていつでも聴けるようにしている。
動くマイルスが見られるし、コルトレーンも見られる。
エコーがかかった演奏でそこはかとなさが出ていてたまらない。
もう一つ、夕べ、車の中でFMを聴いていたら、コントラバスの組曲?みたいのをやっていていい感じだったのでユー・チューブで探してみた。
いくつかあって聴いてみたが夕べのいい感じとは違った曲だった。
そして、いくつかヒットした中にコントラバスとは違った曲で、なぜかオルフのカルミナ・ブラーナがあったのでこれも懐かしかったので聴いてみた。
小澤征爾指揮のもあったが流し聴きして、もう一つ聞いたことのないオーケストラと合唱団のを聴いてみたらこれが結構素晴らしくて半分くらいからじっくり聴いてしまった。
ソプラノとテノール歌手がダントツに素晴らしかった。
ユー・チューブの解説文は何語だか分からない言葉で書いてあったのでいろいろ探ってみたらどうもベルギーのオーケストラみたいであった。
指揮者も歌手の名前も知らないものだった。
映像もすごくはっきりして見やすく、この頃の映像の進化ははすごいと感じる。
干天に慈雨というが久しぶりに聴く音楽はじんわりと心に染みこんだ。

371 IWGP最新

IWGPの最新版を読んだ。
オール讀物の12月号、1月号、2月号の3回連作で今回のテーマはヘイトスピーチ。
「憎悪のパレード」という題が付いている。
まず今回の石田衣良の選んだクラシックの曲は2月号ではバッハのチェロ組曲だった。
この曲は全部で6つの組曲であるが何番を聴いたかは記されていない。
もう一曲12月号にもあったのだったが、手元にないので忘れた。
が、確かやはりバッハの曲だったかなと思う。
チェロ組曲は1番が好きだが、以前に音楽仲間で演奏者を変えて聴き比べをしたことがあったが、やはりみなそれぞれに特徴があって聴き応えがあった。
さておき、ヘイトスピーチはリアルタイムな問題。
それを物語に取り込むところはさすがである。
しかし、作者はかといって強烈な政治的メッセージを出しているのでもない。
ただ単に民族差別問題を現代の問題として取り上げているだけであって、右も左もない無色な感じの取り上げかたである。
事象としての民族差別問題である。
だがしかし中国マフィアの暗躍とか現代中国の抱えている格差問題とか普通一般に知られている状況より少し踏み込んだ我々のあまり知らないことをえぐり出しているところはそれが実際本当のことかどうかは分からないが物語に深みを出している。
フィクションのようでもあり事実のようでもありだが、あながちまるでフィクションでもなさそうなところが少し悔しいのだが。
社会の裏側を物語の遡上に載せるのはいつもながらうまいものだと思う。

370 図書館戦争

有川浩(ありかわひろ)の「図書館戦争」1を読んだ。
130818のところに書いたが「図書館の自由に関する宣言」の5つの項目をテーマ?にして書いた小説であった。
作者が地元の図書館に貼ってあった同宣言を見て想像がふくらんだとある。
それにしてもすごい想像力、本人は妄想だといっているが、確かに妄想じみた想像力である。
未来のある時期において政府が「メディア良化法」というものを作り悪書追放の名のもと検閲を強化する。
それに対して前からあった「図書館の自由に関する宣言」を図書館側がどさくさに紛れて?法律化してそれと対峙する。
検閲する側と検閲をさせない側が重火器までそろえていわば暴力団抗争の公版みたいな感じで丁々発止するのだ。
荒唐無稽だが結構おもしろい。
作者はあとがきのところでこういう検閲体制が将来行われないことを願うみたいなことを書いている。
しかし、検閲とは少しニュアンスが違うが特定秘密法が通った。
作者の恐れていたことが現実となったのだ。
「図書館戦争」は映画化もされているが、主人公の女性役は誰がやるといいかなと思って、彼女がいいのではないかと思った女優がいるのだが、なんとネットで見たらピンポーンの当たりだった。
朝ドラでやった女優である。
作者有川浩は字面から見ると男に見えるが女性だった。
6巻まであるからまた続きを読む

369 非暴力行動



竹富島の教育委員会に対して政府の圧力がかかった問題でデジタル署名の回覧が回ってきたので署名した。
ジーン・シャープの非暴力行動198の方法の中には署名活動は入っていない。
それに似た活動は2つ目の
・反対意見や支援を示す手紙を送る。
という方法が近いかと思う。
形式的であっても何らかの行動を起こすということが重要である。
今日は秘密保護法を廃案にする誓願を出したが、これを議会が承認するか開かれる日であった。
傍聴の誘いが来たが他用で行けなかった。
多分この議会はいつものように却下するものと思われるが市民の監視の目を議員に認識させるために重要である。
それにしても却下するとは情けない遅れた議員達である。
中央にヘイコラする姿はいつもの恥ずべき姿だ。
矜持というものがない。
とまた愚痴ってもしょうがないが、いくら却下されても声を出し続けることが大事だし、傍聴で圧力?をかけることも大事だ。
あとコミュニケーション手段としていくつか上がっているがこれらも参考にしたい。
九条の会はポスターを作ったがこれを貼る。
またステッカーもあるので沢山の車につける。
デモの時にプラカードを持つが、それを工夫して少し芸術性のあるものにしたい。
幟や旗も見栄えのする芸術性のあるものにしたい。
いつもと違うぱっと見てあっと驚くようなものにしたいものだ。
あとやはりこまめな通信づくり。
そして数を増やすこと。
地道な活動が必要だ。

368 ジーン・シャープ

s-Gene Sharp

ジーン・シャープの「独裁体制から民主主義へ」を読了した。
中心主題は非暴力革命というか非暴力による体制変革の仕方である。
この前書いたラ・ボエシの「自発的隷従論」と通ずるところがある。
独裁が成り立っているのは民衆による服従があるからだという点である。
非暴力と簡単にいっても単なる無抵抗のことでもないといっている。
それは独裁に対する戦いのための手立てであり戦略的に様々な方法を用いて展開される戦術のことである。
彼は目的を持った戦略が大事であるといっている。
そういえば現職時代に学級会などで作った原案と似ている。
目的(ねらい)をもち、現状を分析し、目的に向けてその方法を見つけだし、人の役割を決めいつまでにそれを達成するという道筋を書いたものであった。
彼は、やはり突発的に独裁を倒すようにするのでなく、戦略を持って地道にやっていくことだと述べている。
独裁の弱いところは何か、また強いところは何かを分析し、またこちら側の弱いところや強いところも分析し、彼らの弱いところをさらに弱めるための方法をいくつか考えよという。
そして、初期、中期、後期と段階を踏んで独裁を倒し、民主主義をうち立てよという。
倒すだけではだめで、民主化後のことも戦略に入れて行かなくてはいけないという。
彼はその方法をいくつかに分類して198個並べている。
これは独裁を倒すということのみならず、現代の日本の政治状況にも生かすことのできる方法でもある。
演説、デモ、ボイコット、ストライキ、外圧利用などなどいろいろ。
ストライキでもいろいろなやり方を述べている。
できれば今後すこしずつ紹介していきたい。
なお、NKH/BSでやったドキュメンタリー「非暴力革命のすすめ---ジーン・シャープの提言」も録画して見た。
世界中で見られたものらしいが、それほどのインパクトはなかった。
それよりこの本が多くの国で翻訳され、この本によってそれが実践され改革がなされた国もあるということからすれば本の力は大きかったといえる。
非暴力を貫き通すということの困難性からすればこの研究はすごいと思う。

367 気骨

竹富島の教育委員会の選択が悪いといって、政府が文句をつけた。
右翼的な教科書を選択しなかった。
教育委員全員が反対とある。
なかなか骨のある委員だと思う。
こういうことをなくすために教育委員会制度を変えようとしている。
首長が気に入る教育長にしようとしているのだ。
今の政府がやっていることをそのまま当てはめようとしている。
これでは中立性も何もあったものではない。
金は出すけど口出さないというそもそもの趣旨が理解不能であるらしい。
断固口出しに逆らってほしい。
無償制度があるにもかかわらず見せしめみたいに政府は金を回さないので寄付でもって教科書を都合しているらしいが、まったく金も出さず口だけ出すとは言語道断である。

366 キレ者

類は友を呼ぶ。
というがほんとに類は友を呼んでいる。
切れる奴ばっかりというか居直る奴ばっかり。
法制局長官はよくキレル。
あんなにキレて法の番人といえるのか。
論理的というより感情的。
いったんキレたら何するか分からない。
そんな人が鉄砲持ったらどうなるか。
ベアの友達だからやはりそうかという類である。
NKHの会長も同じ。
何度も何度も居直っている。
嘘ついてまで居直っている。
ヒャクタもそうだし。
言い換えれば浅はかな人ばかり。
重みも深みもなんにもない。
まとめて倒さなければならない。

365 ベア

ベアばやり。
久しくなかったベア。
しかし、ベアが出るのは大企業ばかり。
NKHのクローズアアップでもやっていたが、中小は人に回らずコストダウンや設備投資に廻される。
一番悲惨なのは非正規の労働者。
あるスーパーでは非正規であっても組合に入っている人が多くてその人達の賃上げについて交渉していた。
非正規であっても組合を作って労使交渉をすることは珍しいのではないか。
非正規の労働組合を作ることは大事なことだ。
当然の権利だ。
ところで餃子の王将はベア1万円。
1万円という額の多さに驚くが、逆にそれで経営としては今後成り立っていくのか心配するほどである。
それともこれまでの賃金が無茶苦茶低かったのか。
いずれにしても、モチベーションは上がるだろう。
それに一つの宣伝効果もあるのだろう。
ところでもう一つのベア。
このベアはしきりに企業に賃上げを頼んでいたが、賃上げをしたのは大企業ばかり。
やはり大企業頼みのベアでしかない。
これじゃあ格差がますます広がるばかり。
消費税あげてさらにさらに格差は広がる。
ベアが出たと言って喜ぶのは早い。
俺は非正規をなくして労働環境を良くすることが先決だと思う。

364 言葉

昨年3月13日にブログを書き始めて今日でちょうど1年。
1回旅に出たので書けなかったが、毎日書けたことは我ながらよくやった。
しかし、今日は何を書こうか、ネタが浮かばないことがこのごろ多くなった。
パソコンの前に座っても何も出てこない。
呻吟苦吟の毎日と言ったら大げさだが夜の12時近くになってやっと完成というのも多々あった。
12時前にアップしないとその日はカレンダーに記されないので、11時59分何十秒にとりあえず1行ぐらいアップして、日付が変わってから編集に戻り書き足して行ったこともある。
しかし書き出すとそれなりに10行ぐらいは出てくるのが不思議。
日記とブログを書いているが、日記は短くともその日のあったことを書くので書きやすいが、ブログは少しテーマを持たせているのでそのテーマが決まるまでに時間がかかるのだ。
日記はかれこれ20年近くパソコンに書いているので、書くこと自体は苦にならない。
自分で後から読み直してみるとたいしたことは書いていないしつまらんことを書いているなと思うこともある。

それはともかく、武器禁輸3原則を見直す動き。
武器の輸出を武器の「移転」と言っている。
輸出は輸出で武器を売ることだ。
あからさまに言うと反対されやすいのでごまかしているとしか思えない。
せこいことだ。
同じく積極的平和主義も、裏を返せば軍事行動容認、力でねじ伏せることもOKということだ。
政治家の言葉は必ず裏があり、だまされてはならない。
て、いうかいくらそういう言葉でごまかしても庶民は敏感に感じ取る。

363 黙祷

今日は3.11。
2時46分サイレンが鳴る。
散歩の途中だったが立ち止まって黙祷。
あのときの情景が頭をよぎる。
黒い波が田や畑を浸食していく。
所々で火の手が上がっている。
そして右往左往しているような車。
ヘリコプターで上空から撮影している映像をリアルタイムのテレビ画面で見たのだった。
からだがぞくぞくした。
想像しがたい大災害に今まさに身に降りかかって、苦痛、苦悩にあえいでいる人がそこにいるのにテレビ画面でそれを見ている自分とのギャップ。
そのどうしようもないやるせなさ、いややるせなさを感じるどころかただ驚きと恐怖におののいているだけの自分がいて、いわば頭の中は真っ白け状態だったのだ。
ただ見ているだけの自分に上から目線を感じて嫌悪する。
無力感と絶望感と悲愴感が入り交じって混乱する。
そのときの気持ちは忘れまい。忘れない。
あの光景は強烈に心に焼き付いている。
静かに黙祷した。

362 男と女

思わぬ寒波襲来。
昼間も吹雪くほどの雪が降る。
花粉は縮こまって飛ばないからいいが、その分また長引くか。

公民館で民生委員や福祉委員を中心にお年寄りを集めてサロン活動をやってる。
我が家も垂乳根が一人お世話になっているのだが、配偶者と一緒にいつも行っている。
といっても月2の割合で多くはないのだが。
参加者は全部女性。
男性のお年寄りは一人も来ない。
何をするかというと、主はおしゃべり会、ダベリングである。
そして少しゲームをしたり本を読んでもらったり、簡単な体操をしたりしている。
なぜ男性は来ないのか。
私の分析では、男はそういういわば公の場でのおしゃべり会みたいのは好かんらしいということである。
それとやはり女ばかりみたいなところには入りづらいということであろう。
ただ、といっても、女性の方もそんなに多くても話さないらしく、いつも3,4人のグループでのおしゃべりだそうである。
それにしてもやはり女性はおしゃべりが発散の重要な要素みたいである。
しかし、そうはいっても男性の方は集まるときは集まっている。
近くに喫茶店があるのだが、毎朝8時か8時半にその前を通ると軽トラがずらりと並んでいる。
男の年寄り連中が寄っているのだ。
そして中にはいるとだいたい席が決まっているらしく、いつもの場所へというわけである。
そしてコーヒーを飲みながら男の会話をするのである。
自分はコーヒーは飲まないので行ったことがなく、会話の実体はどんなものか知らないが、毎日毎日何を話しているんだろう。
それとも男は黙ってじっとしているのだろうか。
天気の話ぐらいして。
2軒の喫茶店があるがとにかくどちらも朝は軽トラ軍団である。
女性は行かないかというとそうでもなく、行く人は行っているようである。
年寄りの女子会というやつである。
ということで男は毎日、サロンをやっている。

361 反原発脱原発

あちこちで反原発集会が開かれたようで新聞の片隅に載っている。
片隅にでも載っているのは良心的な方だろう。
今日は日本国営放送も国会前の反原発デモを少しだけ取り上げ流した。
ネットのニュースでも取り上げている。
キンカン集会と言う言葉を聞いたが、はやりの略語みたい。
金曜日官邸前集会のことのようである。
それはともかく、今日は地元の九条の会に行ってきた。
そこでも少し原発の学習をしたのだが、やはり学習しないと知らないことがそのままになる。
今回そうかと思ったことは、大飯原発差し止め訴訟での口頭弁論での発言から、福島では除染のための焼却炉を作っているということである。
環境専門学者の意見では焼却処分は決してしてはいけないという人が多く、もし焼却するのであれば福島第2原発内のバグフイルター突きの焼却炉でなければ危ないらしい。
鮫川村の簡易焼却炉で試験焼却を始めたところ10日も立たないうちに爆発事故を起こしたらしい。(これはニュースにならなかったのではないか、自分は知らなかった)
住民にはこの事故のことは知らされていない、という。
そして守秘義務を理由に情報を出さないまま再稼働しようとしている。
福島では30カ所ぐらい作ろうとしている。
海や川を汚し、大地も汚し、今度は空までも汚そうとしているのだと言っている。
水や大地ばかりでなく空気まで汚されたら人間は生きてはいけない。
このところ日本国営放送(略してNKH)は原発問題の特集番組をいくつかやるようであるが、この辺のところをやるかどうか見定めたい。
昨日は自主避難者の苦悩についてやっていた。
避難区域外の避難者にはあまり手厚い保護の手を差し伸べていないと言う問題だった。
復興大臣のインタビューも載せていたが、やはりつっこみ不足。
明らかに弱者の切り捨て、見切り、見捨てだが、復興大臣の言葉に改善の言葉はなかった。

360 チョムスキー

s-chomsky[1]

チョムスキー氏が福島を視察したと新聞に出る。
85才にしてよくやってきたモンだと敬服する。
福島を見ての見解が載っていたが力強く感じる。
穏やかながらも的確な分析と鋭い舌鋒はさすがである。
2011年9月の首都の脱原発集会に連帯のメッセージを寄せている。
福島では集団疎開裁判に支持するメッセージを寄せている。
それにはもっと外圧を利用せよと言っている。
現政権にも危惧の念を抱いている。
「日本の超国家主義者は平和憲法をなくそうとしている。・・・首相は日本を帝国の時代に戻そうという狙いがあるのではないか。ヒトラーが権力を掌握していく過程を思い起こさせる。」
「集団的自衛権と言えば聞こえは良いが、実体は侵略戦争だ。・・・だまされてはならない。」
「政府は市民の反発を恐れている。テロリストというのは権力側が反対する市民にレッテルを貼っているだけだ。強制や弾圧を正当化する言い訳にすぎない。」
などと述べている。
そういえばテレビでチョムスキー氏の来日を報道しているニュースは多分一つもなかったのではないかと思う。
テレビメディアの劣化である。
チョムスキー氏は、今や言語学の大家というより社会活動家としての名声が高いかもしれない。
ネットによると、チョムスキー講演会が5,6日と上智大学で行われた。
生のチョムスキーを見てみたかった。
後日ビデオ配信されるらしい。
その演題の一つが
Capitalist Democracy and the Prospects for Survival
「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」である。

チョムスキーの講演DVDは「Power And Terror」というのと、「日本国憲法」というジャン・ユンカーマン監督がとった世界の有名な知識人達のインタビューしたものにも入っているのを持っているが、また多分上智でやったのもDVD化されるだろう。

359 卒業式

卒業式に呼ばれて行って来た。
百年一日のごとくのヒノキミ卒業式であった。
この頃トチ狂っているイジバラじじいは知事だったときは弾圧したくせに自分ではあのところはワガヒノモトハと替え歌して歌っていたらしい。
コーシツも嫌いだなんて言っている。
それはともかく自分はいつものようにじっとして歌わなかった。
生徒達はまじめに参加し、出る方も送る方も男女問わず涙を流す子もいて子どもたちにとっては感動深い式だった。
どちらも合唱をした。
涙を流しながら歌う姿は思わずもらい泣きしてしまうが、純真な心が感じられて嬉しかった。
今時の子にしてはと思ってしまう。
式の中で市長の祝辞があったが、市長は「憲法26条」の話をした。
教育の権利と義務の条文である。
少なからず時間をとってその意味を解説していたが、「憲法」を取り上げたということは市長としても「憲法」を遵守するという意識が感じられてなかなかいい線行っていると思った。
33名の卒業生の中で3名の子が将来、教職につきたいと希望を述べていた。
学校の雰囲気というか、仲間、教師、その他の環境が良くないと教師になるという夢は持ちづらいのが今日の情勢である。
そういう中で3名の子がそういう希望を持ち得たということは、その環境が良かったと言うことを意味する。
いじめ、不登校など学校の環境は依然として問題を抱えている。
そういう現実にも立ち向かっていけるような教師を目指してがんばってほしいものである。

358 確定申告

確定申告にいった。
毎年、しっかり計算していくが、今年も直されてしまった。
マニュアルに従って書いていくのだが、まだ意味が読みとれていないという証拠だ。
金額に応じた計算の仕方が書いてあるので、しっかり読みとってそれに従ったつもりだが、まだまだ読みとりが甘いということだ。
係りの人がやったのを自分のやったのと見比べてみるとなぜ間違えたのかが分かるのだが、めんどくさくてこれまでそのおさらいをしてみなかった。
今回それをやってみたら少し分かった気がした。
でも来年になったらきっとまた忘れているだろう。
申告に必要な証明書をいつもどれか紛失していたりでこれもだめだ。
今度こそはなくさないようにどこかにまとめて入れておこうと思うのだが、なかなか実行できていない。
医療費の領収書はまめにとってあるので、計算すると1年に結構かかる。
一人だけだと少ないかも知れないが、年寄りが居ると増えるのだ。
年金額が今年はがくっと減った。
配偶者が退職したのが大きかったが、それにしても減りようがすごい。
うちらは共済と社会保険と国民年金の3階建て。
そのうちそれをなくしてすべて一本にまとめるという話らしいが、するともっと減りそうである。
少子高齢化は避けられないが、年金問題は世代間の確執となりお互いに共栄するには難しい問題だ。
若干ながら還付金が来る。
庶民のささやかな臨時収入というか正当な税金を納めたという印だ。

357 慣れと風化

昔こんな話を読んだことがあった。
金魚を空中で飼う実験をした。
まず糸で金魚を結んでさっと空中に取り出して1秒間おく。
そしてすぐに水中に戻す。
しばらくして今度はさっと取り出して2秒間。
といった風にして3秒、4秒と長くしていく。
金魚はだんだん空中に居ることに慣れていく。
だいぶん空中に居ることが長くなってきた。
空中に1分、水中に10秒という風に滞空時間が長くなっていく。
ある時実験者が誤って空中にいた金魚を水中に戻したまま部屋を出ていった。
部屋へ戻ってみると金魚は水中でおぼれて死んでいた。
慣れは怖い。・・・という話。
オオカミ少年の話や、ゆでがえる症候群の話も同じだし、人の噂も75日などなど慣れの戒めや人間の意識の減退をいうことわざなどもある。
やはり慣れてしまってはいけないことや風化させたらいけないものもある。
福島の原発や放射能のことがそうだし、戦争の悲惨さもそうである。
また、今、改憲勢力の出してくるさまざまな事柄。
またかまたかといって慣れっこになってはいけない。
縦のものを横にせんばかりの無法なことをやってくる。
現実のこの無茶ぶりに慣れてしまわないために、また風化していくことをくい止めるためにできることは何か。
自分にとっては書くことではないかと思う。
勿論知ることを前提にいろいろな情報を正確に捉えていくことも大事である。

356 おもねる

神戸市が九条の会の集会を断った。
千曲市も同じく断った。
この行政の先回り的偏向は断じて許されない。
憲法を守るべき公的機関が時の権力におもねっている。
間違った行動であることが分からないのか、その判断力のなさに唖然とする。
誰もそれは間違っているということが言えなかったのか、それともやはりおもねったのか。
それが恥ずべきことだと理解できないのか。
とにかく断じて許すことはできない。
中央の顔色ばかり伺っているとしか思えない。
地方自治が大事だといいながら、断固とした態度もとれない小心ものである。
権力を守るのか市民を守るのか、その根底的なところの構えがなっちょらん。
現憲法は生きている。
もう一度原点に帰れ。
現憲法を1度となく読み返せ。
公僕たる意味を知れ。
偏向した勢力をこそ排除すべきで、現憲法を守る勢力は断固守るべきである。
それが行政たるもの、誉められこそすれたたかれるものではない。
歴史に汚点とはこのことだ。
とにかく萎縮をするな、毅然として憲法を守れ。
おもねる=阿る=気に入られようとする。へつらう。

355 先生と教師

「教師」という言い方と「先生」という言い方について思ったことを書く。
自分のことを「先生」呼ばわりするのは何だかおこがましさを感じる。
職員室でも他の同僚を「先生」と呼ぶのも変な気がした。
先輩教師には「まるまる先生」と「先生」をつけていたが、後輩や同じ年代には、「なになに君」や「なになにさん」と君・さんづけで呼んだ。
教室で子どもたちに「これから先生の言うことをよく聞いて」などという場合、あるいは「先生達はこう思っている」というような場合は、自分でもよく言ったし、それほど悪いとは思わなかった。
しかし年をとるに連れて自分のことを「先生」と呼ぶことはできるだけ避けるようにしてきた。
でも小さい子には「先生」を使った。
では「先生」と言わないときはどうするか。「私は・・・」「ボクは・・・」「俺は・・・」など一人称の呼び方で使った。
なんかこう自分のことを「先生」呼ばわりするのは、変な気がするようになったのだ。
退職しても知り合いの人、特に先輩の人に対しては「なになに先生」と「先生」を使ってしまう。
そうでない人もいるけど。
そして自分のことも「先生」と呼ばれることあるが、「先生」はもうやめてくれ、と言っている。
でもこの間教え子の同窓会をやったとき、「先生」と呼ぶなといったら、でもやっぱり「先生」は「先生」だから呼びにくいと言われた。
長年の習慣はやはり変えづらいし難しい。
高校や大学ではどうなのだろう。
自分のことを、生徒や学生の前で「先生が思うには・・・」とはやはり言わないような気がする。
特に大学ではそういう教師はいなかった。
これは小学校、中学校だけのことだろう。

354 産みの苦しみ

なんかこう世界が騒然としてきた。
ソマリア、イラク、アフガニスタン、イラン、シリア、エジプト。
イスラエル、パレスチナ。
ベネズエラはどうなるんだろう。
そして今度はウクライナ。
それに中国の暴動。
それになんと言ってもニッポン。
負けず劣らず悪くすると破滅的な方向に向かうのじゃないか。
いまだに原発再稼働なんて言ってる奴らの気がしれん。
ほとんど狂ってる。
クレイジーでマッドでアンフェア。
北のお坊ちゃんも見過ごせない。
北はともかく、ウクライナや中国は民衆が動き出している。
隷従からの脱却かどうかは分からないが、産みの苦しみを味わっているのかもしれない。
ハメリカの一国支配が壊れた今、露のプチンが虎視眈々とそれをねらっているが、ウクライナ問題で新たな冷戦の始まりだという人もいる。
一国覇権が壊れたのにお互いに仲良くやろうという気もなく、よけいにぐじゃぐじゃになってあっちで小競り合いこっちで小競り合いである。
21世紀平和の時代は遠い。
経済覇権は中国台頭だが、何だか人民元も危ないとか。
ともかく60億総ぐじゃぐじゃ。
こうなると膨れきった風船みたいにどこかをちょっとつついただけで瞬間的に爆発するような事態が起こるかもしれない。
危ない危ない。
検索フォーム
リンク