413 S&G

ポール・サイモンが夫婦げんかしてどちらも逮捕とある。
なんかちょろい事件である。
ちらっと英文ニュースで見た限りではほんとにただの口論だけみたいである。
そんなことで逮捕に至るのか。
おかしな国だ、ハメリカ。
ポール・サイモンといえば我らが青春のアイドル的な存在だっただけに幻滅である。
ビートルズやボブ・ディランなどと並んで青春のシンボルみたいなものだった。
感情的に激情しちゃったんだろうか。
彼の立ち居振る舞いなどを想像するに信じられない思いである。
感情的になる、ヒステリックになる、激昂するという人を自分は苦手である。
みさかいが無くなるというか、人間として見ていられない感じがするのだ。
人間だから感情を表すのは当然だが、表しすぎると怖いのだ。
かといって感情のないことも怖い。
今のおぼっちゃま君はどちらかというと理性派というよりも感情型ではないか。
感情的に走っている。
感情に走る奴は失敗も多い。
でもその失敗のつけが俺等に回ってくると怖いことになる。
その失敗のつけが回らないうちに失脚してほしいものだ。
ポール・サイモンはつまらんことで躓いたが、彼も神ではなく普通の人間だったということである。
少しそのアイドル性も地に落ちたが、これまで作った歌は歌そのものとしては素晴らしいものだった。
というひいきの引き倒しのファン魂である。
おぼっちゃ魔には引き倒すところは何もない。
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412 法悦

岐阜にて親鸞聖人750回忌法要に参ずる。
3時に終了。
午前の法話は我が郷土の誇る名誉教授の話。
80才を越えて矍鑠。
自己・自分・己を見ること、見つめてみること、を説かれる。
親鸞の世から歴史的に見る。
家族の歴史から見る。
地域や郷土の歴史から見る。
昨日今日の出来事から見る。
広く長く深くということだろうか。
午後は門主も迎えて法要。
何十人という僧が並び声を合わせる。
雅楽も交えて荘厳。
読経と雅楽の合奏もあり、普段では聴けない読経だった。
ものすごい早口のところもあり、在家のものではついていけない。
聴いていたら何だかオルフの「カルミナ・ブラーナ」に似た感じだった。
のが興味深かった。
そして一人一人がオペラの歌手のようにすごく大きな声を出すので御堂がふるえるくらいで迫力があった。
キリスト教の教会での歌のように大きな声が一種の快感をもたらす。
文字通り法悦という感じ。
こういう快感から宗教に惹かれるということがあるかも知れない。
「親鸞聖人伝繪~後伝鈔に学ぶ」という本を買ってきた。

411 バッハ

この前何を思いついてかバッハのゴールドベルグ変奏曲を聴きたくなり、友人にグレン・グールドの旧版と新盤を借りて聴いたのだった。
グールドの演奏は定番の演奏らしい。
ピアノで演奏されるが超絶である。
昨日ネットを見ていたら、キース・ジャレットのゴルドベルクがあったのでつい注文してしまった。
ついでにヘンデルのハープシコード組曲もあったのでそれも注文。
昨日注文したのに本日の郵便で届いてしまった。
バッハの方はハープシコードだが、ヘンデルの方はピアノを弾いている。。
グールドと比べると、ゴールドベルクの場合、キースの方がテンポがやや遅め。
ピアノの音色と比べるとハープシコードの方がきらびやかというか響きが違う。
そして、メロディ部分がよりはっきり聞こえる。
ピアノはピアノフォルテと言うだけあって強弱が表現できるが、ハープシコードは強弱が表現できないので音は平板になるがその分、メロディもはっきり聞こえるのだろう。
まだあまり聞き込んでいないので何とも言えないが、これはこれで聴き応えがある。
今日も一日畦塗り。
もうくたくたになった。
午後から、アイポッドをもって聴きながら畦塗りをした。
聴いたのは、キースのゴールドベルグ。
まあ少しは疲れも紛れて作業もはかどったかというと、そうでもなく足、腰、腕が痛くなり重労働であることは変わらなかった。
今日で畦塗りは終了である。やれやれ。

410 ガン

田んぼの仕事の中でもっとも苦痛な畦塗りというのをした。
腰と腕がすぐ痛くなる。
近年はトラクターの後ろにつけたオプションで畦塗り機械というのもあってそれでやれば楽だが、無茶高い機械なので買えない。
田んぼが四角だとすると辺の数は4つあるが、そのうちの2,3辺を塗るのが普通だが今年は、それを減らすことにした。
今日やったの田んぼは1辺だけにした。
水の加減も大事で全然無いと土が固まってしまって楽にぬれない。
それにすくって載せるとき、堅くてすくいぬくい。
水がいっぱいあっても泥が逃げてしまいすくえない。
そんなこんなで今日は1枚しか塗れなかった。
BTW、OB会の通信がきた。
毎年、場所を変えて1泊の懇親会と総会をする。
その案内で今回は我が地元でやることになったので出席しなくてななるまい。
それはともかく会員の近況も知らせてくれるのだが、今回のは少し重たかった。
二人の方のガン報告であった。
一人はすでに2回手術。
もう一人は、これからその準備。
同年代だからどんな病気になってもおかしくない歳にはなっているが、ガンという病気だけは誰もが敬遠したい病気だ。
大病をして大手術もして復活を果たした方もいるのだが、どうかそんな風に元気に復活を果たしてほしいと願う。
今のところ二人とも社会貢献的な活動もしているし、趣味の世界にもはまっているので安心であるが、悪病と闘いながらずっと元気でいてほしい。
健康は宝だとしみじみ思う。

409 女性は太陽

今日はつかの間の休みで兼ねてからの予定のお寺の研修会に行って来た。
親鸞の生涯を学ぶ4回目で、岐阜の別院まで行って来た。
2時間ほどの講話であった。
その中で印象に残ったことを二つ。
親鸞は生涯にいくつか改名をしているがその中の一つ善信というのは、これまで名前だといわれてきたがそれは違うといわれた。
すなわち○○房○○というときの房の名前であってその下につく名前ではないという。
善信房親鸞という使い方である。
名前を変えると当然その名前を使うものであるが、親鸞は年をとっても時おり善信といっていたそうである。
二つ目は妻帯について。
親鸞は最初に妻帯をした僧であると言われているが、実はその前から妻帯の僧はいたという。
しかし表向きは非妻帯であって、出家の身のものは妻帯を禁じられていた。
出家の反対は在家であるが、出家の身のものは在家と違って修行者であるから、死んだときの往生の仕方が一段上というか在家のものより差がついていた。
いわばお偉い方であって一般のものとは差別があったということである。
それに対して、親鸞は出家のものが妻帯しても往生の仕方は同等であるはずだ、
だから自ら妻帯者となってそれを証明するというのだ。
そのころの史料にはある有名な僧が妻帯者であるということを、公然の秘密であるが誰でもそれが嘘であることを知っているというようなことが書いてある。
肉食妻帯をしないことは修行僧の暗黙の了解事項であったが、親鸞はこの禁忌を破ったのである。
妻帯・女犯がなぜ禁忌だったのか。
女にはけがれがあるからと考えられていたからか。
あるいは本能の一部である性行為をしないことを修行の一つとしたためか。
あるいは性欲そのものがけがれと見なされたのか。
女性の権利は日本では1945年になってやっと認められたが、いまだに女人禁制とか女性は土俵に上がれないとかの風習がある(今でも上がれない?)が、われわれの意識の底に女性蔑視の心が潜んでいないか。
とバスの中で女性に対する意識とか女性の権利について考えていた。

408 壮大

朝、早く目が覚めたので、5時半から田んぼに出て田かき。
燃料がほとんど底に尽きいつ無くなるか心配だったがなんとか最後までもった。
昨日マーラー全集を入れたので、あまり聞き慣れない曲を聴いてみた。
1、2回は聴いたことがあるのだが、メロディを口ずさめるほどはないもの。
3、5、6の1楽章。
3番の1楽章は、メロディも覚えやすそうな聴いたことがあるような感じだった。
多分トロンボーンだろう、非常に壮大なメロディ。
しかも力強い。
5番、6番の1楽章も似たような感じ。
やはり金管が壮大さをかもす。
金管が壮大さをカマしているときに、ヴァイオリンがちらっと顔を出して清新さを出す。
マーラーの特徴である。
文章で曲の特徴を表すのは難しいが、金管の使い方が一の特徴かと思う。
きらびやかさと壮大さ。
BTW、オバマは去ったが、ノーベル平和賞受賞者らしく戦争に繋がるような声明や言葉を出してはいけない。
集団的自衛権を認めるようなことをいったり、戦争したがりおぼっちゃ魔に迎合するようなことを言うのは遺憾である。
TPPもいまいち心配。
言いなりになりそうな気配も感じられないことはない。
ほとんど秘密裏に進められているのがそもそもの問題。

407 春の情景

今日も9時から3時までトラクターの上で日が暮れた。
眼のかゆみがいっそうひどくなった。
上がってからアイスノンを目に当てて寝ていた。
冷やすと少しはかゆみが収まる。
その後することがないので、(することはあるのだが)しばらくぶりにアイポッドに曲を入れた。
今日は、バーンスタインのマーラー全集を入れた。
入れている中で、バーンスタインの全集には「大地の歌」が入っていないことに気づいた。
マーラーの交響曲は長いのがあるのでCDも2枚組になっていたりする。
するとアイポッドに入れた場合、楽章が繋がらずにとびとびになることがあるので閉口する。
たとえば4楽章が切れ切れということでなくて4楽章から5楽章がとぶということである。
それはともかく、全曲入れた後で、4番の1楽章を聴いた。
この曲は自分として初めてマーラーという作曲家を知った曲である。
独特の癖のある曲調をもつ作曲家であると思った。
マーラーはその曲のどこかを聴くとああこれはマーラーの曲だと分かるくらい独自の曲の雰囲気を持っている。
モーツアルトもそうだしブルックナーもややそんな感じである。
マーラーの4番はほかの曲と比べて、メロディも覚えやすく取っつきやすい曲だと思う。
誰の指揮だったかは忘れた、多分メンゲルベルクだったか。
1楽章を聴いているとそのときの情景が目に浮かぶ。
やはり春の一日だったか、陽炎が立つような日だった。
まだそのころは花粉症などというものに縁がないときだった。
1楽章の曲の感じも春の日を浴びているような明るい感じの曲だ。
BTW、バラクとクマの共同声明も出すことができず、バラクにとっては想定通りの結果だったに違いないが、クマははしごを外された感じだろう。
尖閣を同盟の範囲内としたことはクマは喜んだかも知れないが、バラクが中国へ行ってなんというか見ものである。
TPPを土産にしたかったクマだが、うまくいくはずがないことは分かっていた。
もし土産にできるほどの成果があったとすると国内はどうなっていたか。
未曾有の混乱が起きて、晩餐会どころではなかっただろう。
しかし油断は禁物、何をしでかすか分からない。

406 絶望

時間ぎりぎりというか田植えまでのスケジュールを見ると、この辺で田んぼにかからないと間に合わないかも知れないので、今日は全田んぼの田起こしをした。
秋に一度起こしてあるので今日は、速度を速めてやった。
天気もよく農作業日和には違いないが花粉を浴びまくりである。
夜になって眼のかゆみが尋常でなくなった。
夕方水を入れておいた。
次の作業は、代掻きである。
水のもっともいる時である。
あっちでもこっちでもトラクターの音がかまびすしい。
BTW、今夜オバマがやってきた。
おぼっちゃ魔は行きたかったヤスクニを我慢して供え物だけおくってお茶を濁したようだが、ちゃんちゃらおかしい。
今度は行きませんでしたよとでもいって威張るつもりだろうか。
それで前回の挽回をしようという魂胆なのか。
失望から絶望だな。
それにしてもおぼっちゃ魔軍団のオバカさ加減よ。
おぼっちゃ魔が行かないからその代わりにでもなかろうが、次から次へとヤスクニ詣でとは。
自分らは下っ端だから関係ないとでも思っているのか。
あさはか軍団だ。
そのままヤスクニに居着いて出てこなければいい。
それはともかくオバマの真の狙いはお隣のシューキンペーであり、そっちと仲良くしたいので、おぼっちゃ魔が集団的自衛権、集団的自衛権といって騒ぐのは痛し痒しといったところだろう。

405 ハリケーン

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アメリカの元ボクサーでハリケーンことルービン・カーターが死亡とニュース。
コラムでは、日本の袴田死刑囚の釈放とボブ・ディランの来日中とあり、関係者が偶然にもそろったとある。
ルービン・カーターのことは、ボブ・ディランの歌で知ったのだった。
1975年、「DESIRE(欲望)」のなかの「ハリケーン」という曲。
ハリケーンとは嵐のことを歌ったものだと思ったが、歌詞を読んだりライナー・ノーツを見たりしたら、ボクサーのことだと分かったのだった。
しかもえん罪であったと。
黒人であるが故に有罪判決を受けたのじゃないか、やはり黒人差別が底流にあると思わされた。
この曲は、長い曲で、ヴァイオリンの音が哀愁感を漂わす。
ディランのプロテスト魂というか、不条理なことに異を唱える心意気がすごい。
1975年にレコードを買ってよく聴いた。
このころからかディランはフォーク的というよりロック的な曲調になっていった。
えん罪は起こりうる。
日本でも近年えん罪による釈放者が相次いでいる。
ハメリカの場合、いわゆるカラード・ピープルの差別はいまだに根底にあるからえん罪も多いのじゃないかと思う。
ハメリカといえば、今夜のクローズアップ現代は富裕層が税金の配分に異を唱え自分たちだけの自治体組織(たとえば市)を作ることが起こっていると伝えていた。
ますます1%と99%の差が開くばかりであるという。
99%の側の市は公立学校に予算を廻さなくなり、学校に行こうにも学校がないのでいけない子どもがいるという。
病院とか図書館とか公的な施設も予算が回らなくなり、貧困層にとっては住みづらいところになっているという。
いびつな国になりつつある。
やがてニポンもか。

404 刃物

コンピューターが一般に出始めた頃かそれより少し前ぐらいに、ちまたでインベーダーゲームが流行した。
そしてパソコンが出ると付属のソフトでソリティアなどのゲームがついてきた。
そしてファミコンや今でいうタブレットみたいな小型のゲーム・ボーイが出て、またそれが進化してプレイ・ステーションやニンテンドーDSなどが出ている。
出始めの頃はゲームといえば子どもの遊び道具だった。
あまりやりすぎるので社会問題になった。
ソフトを貸したが返してくれないとかトラブルがあった。
進化が進むと子どもは一人一台を持ち外遊びがなくなり集まっても一人一人がゲーム機でピコピコしているといって仲間遊びができなくなって問題になった。
ゲーム世代というか初期の頃のゲーマーはすでに立派?な大人になっている。
今は子どもの遊びでなくてそのゲーマー世代の大人がまだゲームをしているという時代ではなかろうか。
子どもの遊びでなく大人の遊びとしてもマーケットを潤している。
私は、コンピューター付属のソリティアぐらいしか遊びの経験がなく、わざわざソフトを買ったりして遊ぶ程の興味はなかった。
大人がするというゲームの影響は、ある意味、超飛躍的か、非難ごうごうを覚悟でいうならばその世代のあるいは一国の文化程度をかなりおとしめているのではないかと思うのだがいかがだろう。
それにかける時間の総量は、本を読む、映画を見る、コンサートに行く、美術館や博物館に行く、自分で絵を描いたりものを作ったりする時間と比べて多いのではないか。
特に読書時間が気になる。
新聞を読まない若者が多くなったといわれる。
よくは知らないのだが、ゲームで相手を倒しながら何か宝みたいなものを探すというものがある。
一定のことをすると何か強力な武器を手に入れてさらに強力なものを求めてだんだんのめり込むようになる。
すると相手を倒すというバーチャル空間での殺人が快感になる。
これが戦争ゲームになったらどうなのだろう。
現実の戦争そのものがゲーム感覚で殺人に対する否定的な意識がなくなるのではないだろうか。
よくハメリカでは銃の乱射事件が起こるがゲームとは関係ないだろうか。
○○に刃物というが、殺人が悪であるという意識が薄くなった者に武器を持たせたら怖い。
BTW(BY THE WAY=それはさておき)ニポンにも似たような奴がいる。
おぼっちゃまくんである。
次から次へと武器を手に入れて戦争に突入しようとしている。
官邸で一人になったらせっせとゲームしてるんじゃないか。
○○に刃物とはよく言ったものである。

403 逆襲

今日は、井普請。
主な作業は鹿よけの電牧張りとそれの補修。
少し森の中へも入ったのでやたら眼がかゆい。
本来の井普請は水回りの作業だが、それはほんの少ししかやらなかった。
近年は獣害(主に鹿だが)がひどくてそれの対策ばかり。
初めは1mくらいの支柱をたててそれに電牧線をつなぐやり方だったが、簡単に飛び越えられてしまうので、2mくらいのにして線も増やしたが、それでも有効でないので、今度は1mくらいのメッシュ(鉄製の網)を立てて2mくらいの支柱に線を張る。
それでも中には突進して壊してしまう鹿もいて、今度は2m程の高さのステンレス線の入った網をつなげて山の中を張りめぐらす。
ということを続けてきた。
今のところやはりその網が一番有効である。
国の補助で使った金額は何百万。
獣害対策といってもほとんど鹿との知恵比べだった。
まだ網の張られていないところは今でも夜になると10頭以上の鹿が群れをなして出没。
田んぼはなぜか彼らの遊び場みたいなものになる。
田植えをしてそんな風では困るので、その前にこういう作業を毎年行うのである。
今後は、網の効果が高いので電牧線の代わりにそこら中に網を張ることになるだろう。
こんなに鹿が増えたのは元はといえば人間のせいであるので鹿もかわいそうである。
近年、ますます増加傾向とある。
網のこちら側へ来ることは減っても数は減ることはないかも知れない。
そうなるとどうなるのか。
生態系の異変が起きるのではないかと思う。
どんな異変なのかは想像がつかない。
こうなると鹿が檻の中に住むのではなく、人間が檻で囲まれて生活するということになりそうである。
というか、もうすでにそうなっている。
鹿の逆襲というか自然の反発というか。
警告は人間に発せられている。

402 無邪気

久しぶりに遠くにいる3才と0才の子どもが親と一緒に遊びに来た。
うちの孫の0才も来て爺婆や親たちがほうほうといってなごやかなひとときを過ごした。
3才の子どもの無邪気さははらはらもするがあまりにもきらきらしてまぶしいくらいだ。
0才の子どものイノセンス、無垢さ加減はこっちの垢にまみれた心が洗われて行くみたい。
このくらいの子どもがいると世の中平和になるなーと実感する。
それはともかく、「立憲デモクラシーの会」の会見の様子が新聞に出ていた。
憲法、政治、経済、物理、哲学、文学など幅広い分野の学者さんたち。
大いに働いてもらいたい。
何遍も言うようにメディアに出まくりしゃべることだ。
改憲側のメディア規制や独占を許してはならない。
新聞、雑誌も大事だが、テレビ、ラジオ、インターネットを大いに活用して、ああまた出てるなと思わせるくらい出てほしい。
「集団的自衛権を考える」特集では、自民の村上誠一郎氏が一人でも反対していくとほえていた。
彼の言う、
「今は戦費なんて出る財政状況じゃない。いかに戦争をしないか。いかに平和を続けられるか。そういう外交努力こそが必要なんです・・・。」
「政治家や内閣は、三権分立や立憲主義にのっとったことをしなければいけないんです。」
という言葉が冴える。
もっと仲間を増やしてほしいものだ。
無垢で無邪気な子どもたちを戦場に行かせてはならない。

401 チケット売り

今日も夜会議。
年度初めなのでいろいろな会議が続く。
何でも初めが肝心、土台がしっかりしていないと後が大変。
この間、その土台がしっかりしていない提案をされて会議が紛糾しかけたことがある。
まず、目的が大事、その上で内容と段取り。
内容はできるだけ具体的なことが分かるといい。
そして、時間配分と係り配置(人員配置)。
いつまでに誰が何をするか。
このくらいは初めの提案としては必須だろう。
この提案が通ったら、目的を達するまでに中間の会議も必要である。
段取り八分という言葉もあるようだが、それさえしっかりしておけば後はその流れに乗ってやるだけだ。
問題が出てきたときはすぐに話し合い修正である。
それはさておき、「立憲デモクラシーの会」、もっと学者の数を増やしてどんどん発言しまくってほしい。
おいらは今日は、映画会のポスター貼りをしてきた。
といってもたったの2枚だが。
まだ2枚残っているので明日貼ってきて、その上でチケット売りを目指す。
チケット売りの極意?は自分でも売るが売ってもらう人を作ることである。
理論的にはチケットを売る人が多ければ多いほどチケットはよく売れる。
だから実行委員会を作っても実行委員は自分で売るばかりでなく、自分の下にチケットの売人を沢山作ることが大事である。
できれば自分はほかの仕事して売人にすべてを託すのがいい。
ということは自分の人脈を日頃から広げたり養ったりしておくことが大事だ。
いきなり頼んでもやってもらえない。
頼んでもすでに他の人から託されたりすることもある。
共通の友達だったりするとそうなることが多い。
だから友達を独自につくることが大事だがこれはなかなかむずかしい。
いずれにしても今のところの問題はチケット売り!

400 立憲デモクラシー

腰が少し痛いのと、左肩がいわゆる五十肩というのかシャツを着るときなどキヤッとして痛い。
それで久しぶりに整体にいってきた。
少しは良くなったか。
これから田んぼも始まるのでその前に少しでも痛いところをなくしておこうと思ったのだ。
山登り友人は二人ともやはり腰痛や膝痛を持っていて、一人は6月に手術の予定をしている。
歳が歳なので無理は禁物。
身体も安全運転である。
7月には人間ドック的な健康診査をしているし、1月にもそれより少し少ない健康診査をしている。
ので、健康には気を遣っているつもりだが、今の季節は運動ができないのが悔しい。
運動はウォーキングをすることにしているが、花粉の季節はこれができないのだ。
たまの山登りも運動だが、日頃のウォーキングができていないとただ辛いだけなのでやはり日頃のウォーキングは欠かせないのだ。
それはともかく、安保法制懇はいよいよ集団的自衛権の見直しを出してくる気配。
55年も前の砂川判決を出したり、必要最小限がどうとか言っているがこじつけにすぎない。
対する反対派は学者達の「立憲デモクラシーの会」を立ち上げた。
「立憲・デモ・暮らし」なる会。
強烈なメンバーばかりだがたくさんメディア露出をして反対世論を高めてほしい。
自民党は身内だけの説明会かヒヤリングみたいなものを始めているが、それを上回らなければならない。
ということで、これからは地元でも何とかこれに似たことをし始めたいところだ。
当面は映画会に向けて宣伝とチケット売りに精を出そう。
と思っているところ。

399 春爛漫



夜会議があることをすっかり忘れていて電話がかかってきてすっ飛んでいく。
しっかりメモして覚えていたつもりだが、忘れてしまった。
前にも一度あった。
歳のせいかと思うが、関係者に今度から10分前に来ていなかったら早めに電話するように頼んでおいた。
会議が終わって外に出ると満月が出ていた。
心なしか赤っぽく見えた。
昨日15日は赤い月が出るとかでニュースに出ていたが、今日もまた出るのだろうか。
何かの天体事件(月食とか)でそうなるらしかったが、今日はそれは終わったはずであるがやや赤っぽく見えたのだ。
それはともかく、我が地は今、春爛漫。
やっと桜が満開になった。
梅もまだ残っているし、水仙は咲き誇っているし、レンギョウ、モクレン、チューリップ、山は辛夷にヤマブキが満開だ。
桜はここから15分ほどの市街地は散っているが、標高差270m上のここはやっと満開になったのだ。
芝桜もきれいに絨毯咲きをしているし、まさしく花が一斉に咲いて春爛漫なのだ。
惜しいことに檜花粉が真っ盛りでその花を愛でるために外出することはできない。
そして田んぼの方も始める人はもう始めていて自分も始めたいのだが花粉のためにもう少し遅く始めるしかないのが悔しい。
春爛漫のこの時期は自分にとっては地獄の季節なのである。
やれやれ。おわり。
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398 ハレルヤ

何気なくネットを見ていたらYouTubeでどこやらの神父さんが結婚式で「ハレルヤ」を歌うのをみた。
非常にうまかったのでびっくりした。
ソプラノ的な高い音を難なく出していてすごい。
初めはおやおやと思って聴いているが、だんだん本格的な歌声になっていき、そのうち圧倒的な声量に圧倒されて聞き惚れてしまう。
今のところ4日で700万アクセスという。
素人でオーデション番組に出て一躍有名になった人がいたがそれに匹敵するほどのうまさであった。
「ハレルヤ」はレナード・コーエンの作った歌だが、聞き直してみると落ち着いたいいメロディの曲である。
レナード・コーエンはフォーク・ソング的な歌を作るシンガーソングライター。
詩人としてもなかなかの人である。
ついでに検索して彼自身の歌う「ハレルヤ」を聴いてみたが、残念ながら自分としては神父さんの歌う「ハレルヤ」の方が断然良かった。
しかしレナード・コーエンの声は滋味であり重量感のある低音が魅力である。
この前なくなったベルベット・アンダーグランドのルー・リードの声によく似ている。

397 カルミナ・ブラーナ

昨日はテレビで見たカルミナ・ブラーナのことを書いた。
前にも少し書いたが、カール・オルフの書いた曲である。
初めて聴いたのはやはり学生の頃。
合唱曲にこっていた頃に聴いたのだが、これもかなり衝撃を受けた曲だった。
しかも現代作曲家であって、現代にもこんな曲をかける人がいるというのも驚きだった。
クラシックというのは、古典だとばかり思っていたせいだった。
それ以後、現代作曲家にも目を向けるようになった。
それでカルミナ・ブラーナは、レコードも手に入れてよく聴いた。
生の演奏もそのころ若杉弘の指揮で名古屋で聴いた。
昨日のN響の演奏はそのときのことを思い出させた。
なんと言ってもリズム感がある曲で、メロディも覚えやすくメリハリのある曲である。
合唱が全編を占めているが日本人が歌うにはラテン語だから難しいと思うが、さすがプロ、難なく歌っていた。

396 石原吉郎

今晩のEテレのN響、カルミナ・ブラーナは圧巻だった。
それはさておき、今日は昨年に引き続き招魂祭に呼ばれていって来た。
お寺様の法話は人の死というものを考えさせるもの。
今回は詩人石原吉郎のことから。
石原吉郎は現代詩にとって省かれない重い詩人である。
シベリヤ抑留とラーゲリの極北の体験をしていらっしゃる。
戦争による死というものは数ではない。
一人一人の命の重みというものがあるのだ。
私はあまり石原吉郎の詩は読んでいないのでこれ以上のとやかくは言わない。
詩の引用をする。以下
「人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。」 -「確認されない死の中で」
「「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ。」これはイスラエルで、アイヒマンが語ったといわれることばだが、ジェノサイドをただ量の恐怖としてしか告発できない人たちへの、痛烈にして正確な解答だと私は考える。」 -「アイヒマンの告発 」

395 一人の反乱



丸谷才一の小説に「たった一人の反乱」というのがある。
昨年末の秘密保護法案に自民党でただ一人反対した人がいた。
村上誠一郎という人。
その人のインタビュー記事が「世界」5に掲載。
こんな人が自民党にもいるんだと感心。
かなり痛烈にクマ批判をしている。
全文を載せるわけにはいかないので部分的にコピペする。
・・・「・・・立法府や行政府がやるべきことは、最高裁から違憲だと判断されないように法をつくり、解釈し、運用していくことです。いくら内閣法制局の長官に自分の考えに近い人を任命したところで、この法治国家の基本原則が変わるはずがない。なぜこのような基本的なことを理解できない人間が永田町に増えてしまっているのか。」
「閣議の決定で解釈を変え、それに基づいて自衛隊法を改正するということは、下位の法律によって上位の憲法の解釈を変えるという、絶対にやってはいけない「禁じ手」です。これは誰がどう言おうと認められない。」
「憲法は、・・・「平和主義」と「基本的人権の尊重」、そして「主権在民」、この三つはアンタッチャブルであり、絶対に変えてはいけない基本原則です。その「平和主義」の核心にかかわる問題においてすら、閣議決定で解釈が変えられるなどという前例が作られてしまえば、他の分野までこの手法は及んでいきます。結果として、憲法の基本原則が機能しなくなってしまう。それは立憲主義が崩れることを意味します。」
「この解釈改憲が万が一にも行われるならば、天下の自民党がみずから憲政に汚点を残すことになります。」・・・・
もう少し引用したいけどここまで。
ほかにも、武器輸出三原則の撤廃などについても批判的な言辞。
また小選挙区制についても反対の立場をとる。
今の自民党がいかにも右に寄りすぎていると憂慮している。
それはともかく、今晩のNKHの「集団的自衛権」の生特番組。
3対3で議論していたがあまりかみ合うこともなく、どちらかというと容認派の論客が勝っていたようにも思えたが、さてどうしたものか。

394 発情

雄のウサギを家の中で飼っている。
もう2年半ぐらいたつ。
朝、手でえさ(市販の固形物)をやると口でくわえて持っていく。
今朝やろうとしたら口でくわえずにしきりに我が指や手をかいでしまいには腕によじ登ろうとする。
変な行動をすると思ったらそれは発情した印だった。
我が手を雌と見立てて性行為に及んだのである。
犬などもよくそんなことをすると聞くが独り者のオスはみんなそんな行動をするのかも知れない。
動物はマスタベーションしないからよけいかわいそうな気がする。
ウサギは鳴きもせずかみつきもしない。
ただ黙って昼間はじっとしているだけ。
春はだいたいの動物は発情の季節か。
猫の発情はやかましい。
萩原朔太郎の詩、「猫」。
「おわあ、こんばんは。」
「おわあ、こんばんは。」
といってるのは猫の発情らしい。
人間はいつでも発情するがもっとも激しいのは10代20代。
人間の一生を四季にたとえると、
10代20代が春。
30代40代が夏。
50代60代が秋。
70代以上が冬。
だろうか。
それはともかく、政治の世界は今は冬の季節。
冬が終われば春になるのだが、春は遠い。
しかし、冬が永久に続くことはない。
冬は永久には続かない。
クマを早く眠らせよう。

393 機械化の功罪

今日は籾まきをした。
50箱の予定だったが48箱しかできなかった。
籾を厚く蒔いたということである。
1ヶ月ほどかけて田植えができる大きさまで育てる。
主な仕事はハウスの中の温度管理と水やりである。
ハウスで苗が育っている間に田んぼを田植えができる状態に仕上げる。
トラクターで起こし、水を張り、畦を水漏れがしないように土を塗り、肥料をまき、代掻きをして田植えを待つ。
この間の仕事が肉体的には一番つらい。
今は機械化ですべて一人でできるが、昔は田んぼの仕事といえば大勢でやるしかなかった。
猫の手も借りたい程の人海戦術での労働だったのだ。
だから昔は労働力としての子ども数の多さは農村では必須だった。
しかし、その分食べさせるのも大変だから子どもの数の多さは一家にとって諸刃の刃だった。
機械化と共に子どもの労働力としての役割はなくなった。
機械化が少子化に拍車をかけたともいえる。
その少子化が今や問題。
片方では人口の高齢化もある。
農業人口の減少と高齢化。
そしてさらに後継者がなくなっていく。
効率化と合理化が進んだ結果がこうである。
そういう意味では機械化もまた諸刃の刃だったといえる。
今後さらに新自由主義下における合理化が進めば農村は消える。
なんて事を考えながらする田んぼづくりもむなしいと言えばむなしい。

392 こぶし

今年はこぶしの花が多いと感ずる。
黒い山の中に白い部分があちこちに見られる。
近くで見るとモクレンみたいだが違う。
その香りが何とも言えないいいにおい。
渋いようなすっきりとした香り。
そして葉っぱをかむと甘みの中に渋みあり香りありで好きな木である。
♪近づいてご覧なさい、こぶしの花があるでしょう。
と歌ったのは笠木透の「私の子どもたちへ」だったか。
生きている鳥たちが
  生きて飛びまわる空を
  あなたに残しておいて
  やれるだろうか 父さんは
  ・・・・
自然を愛し子どもを愛し歌にしたフォーク歌手だった。
今も歌手だが。
自然が危ないといわれて久しいが今日はあれれと驚くことがあった。
我が家の家の前の道にミツバチと思われる死骸が落ちていたからである。
まだミツバチが飛ぶには早い気がするが何故なのか。
ミツバチの失踪も数年前から日本のみならず世界で報告があるが、農薬の影響も指摘されている。
ネオニコチノイド系の農薬だが、この地も田んぼに対してそれの含まれる農薬を使用していないとは言えない。
自分の調べた限りでは使用しているある農薬には含まれている。
いずれにしてもどんな農薬でも完全に安心とは言えない。
すぐに影響が表れないまでも蓄積されていくと怖い。
水銀がそうであったように、ミツバチなどを見る限りもうすでにある薬はその悪影響が出始めているかも知れないのである。
今年は農薬の使用をできる限り押さえたい。
今の自然はすでに壊れていると言っても良いのではないか。
だとすると、これ以上壊さないことときれいな自然を復活させることが必要である。
戦争は最大の自然の破壊行為である。
TPPも日本にとっては自然の破壊に繋がることである。
そのどちらもやれるようにしているのは誰か。
ベア・ザ・クマである。
俺はこぶしを振り上げる。

391 安全運転

運転のもっとも基本的なことは、前を見て運転することである。
よそ見をしたり車内のどこかのつまみなどを見ていてはいけない。
常に前方注視である。
二つ目に、やはり速度は適度であること、出し過ぎはいけない。
遅すぎると帰って後ろの車に迷惑である。
よくだらだらと運転して後ろに詰まることがある。
いらいらする。
なので遅く行きたい場合は後ろに車がついたら「お先にどうぞ」と譲ってやることである。
ここまで3つのことを書いた。
もう一つ、自分の失敗から。
眠たくなったら、すぐどこかで止まって休むことである。
居眠り運転は絶対しないことである。
これで四つのことを書いたが、これを4箇条にまとめると。
前方注視。
速度はそこそこ。
お先にどうぞの精神。
居眠り運転しない。
である。
四つの頭文字をとって「お・そ・い・ぜ」。
で運転するときはまず心に「おそいぜ」を唱えてから運転する。
「い」は「居眠り」のほかに「飲酒運転」も入るが、これはもう当然のことだろう。
でもついでに入れておいてもいいだろう。
今日は午前中、中学校の入学式に行って来た。
全校で50人そこそこの学校で、あまりに整然としていてなんだかむずかゆかった。
職員は男性よりも女性が多い学校であった。
校長によるとそれでも去年よりも男性が増えたそうであるが。
中学で女性が多い職場はそうないだろうと思ってびっくりした。

390 健康安全第一

近所の人の入院ということを二つ聞く。
ひとかたは50代、もうひとかたは70代。
どちらにしても大変だ。
特に若い方の方は病気が病気だけに大変だ。
回復を祈らずにはいられないが大黒柱だけに心配が大きい。
やはり人間、健康が宝だ。
自分としてもいつこの健康が崩れるか、いつ起こっても不思議ではない歳になっている。
日頃十分留意しているがとにかく車と一緒で安全運転である。
退職したとき、通勤というものがなくなって車の安全割合は高くなったが、やはり気持ちも大事だと思って、車に乗るときは気持ちを引き締めている。
退職して2年目の時だったか岐阜方面に行った帰り、近道をしようと思っていつもは通らない山道を運転中居眠りをしておおかた死にそうになったことがある。
山道のためほとんど対向車は来ず、自損事故のみだったが、一歩間違えば谷底転落で命を落としていたかも知れない。
第2の人生はそれで終わりだった。
そこで助かったのでこれからは第3の人生だと感じるようになった。
第3の人生はこんな事のないようとにかく安全運転に努めようと心に誓ったのだった。
居眠り運転というのはその事故を起こす少し前からうすうす感じていた。
ヘアピンカーブを曲がるたびにセンターライン飛び出しで大曲がりをしてしまうのだ。
ふわーふわーとした感じだった。
そのとき止まって休めばいいものをもう少しで到着するからと思って無理に運転していたのがいけなかった。
それで遂にあるときふっと意識がとぎれて気が付いたら山側に激突して車が傾いていたというわけだ。
谷側に行ったら転落していたのだ。
何という幸運。
おまえはまだ生きていよと神の声がしたのだ。
というのは冗談だが、とにかくそれでもう車は安全運転に徹しようと決心したのだ。
自分なりに安全運転のスローガンを作った。
それはまた明日

389 憲法草案

九条の会の例会。
5月の映画上映に向けての準備。
ポスター、チケットなどの配布。
その前にいつものように若干の学習会。
自民党の憲法草案における天皇の扱いについてなど。
元号は昔は一天皇でもいくつも作った。
しかし一天皇一元号と書く。
これは元号によって天皇を際だたせるもの。
どうしても天皇の存在をあらしめたいという意図がある。
元首化するのもそのため。
人民に天皇を意識づけるということだ。
なので元号ではなくて西暦を使おうということにした。
自分は前からそうしているが、役場その他では元号を使わしめんというところがある。
もう一つ皇室問題。
皇太子妃は病気で苦しんでいるが、そのもとは何であったのか。
子どもが生まれて実家へ帰るということがあるが、妃の場合一回それをしただけで後は禁止された。
公園デビューみたいなことも一回行ったがそれもその後禁止された。
前の妃の時は、結婚するとき旦那たる人を尊敬しますみたいなことをのたまったそうだが、皇太子が結婚するときは皇太子の方から妃を守りますみたいなことをいったそうである。
そのようなことでわれわれ一般人が普通にすることを禁止されたり立場の逆転みたいな事を揶揄されたりして心の病を得たのではないかということである。
週刊誌のネタはいつも妃のバッシングで芸能人の場合とほとんど変わらないがそれも関係あるのだろう。
ともかく、差別の陽の部分としての天皇制であるが、その立場というものに悩まれているのかも知れない。
このところの極右的な政府の政権運営について、誕生日などにおける天皇や妃や皇太子の発言はこれを憂慮するような発言をされる。
それがおもしろくないのか右的なメディアはわざとそれを報道しなかったりもする。
今のところは象徴であって決められた国事行為のみが許されているが、自らは憲法に則った事をするのがいいと自覚しているのだろう。
しかし、政権は天皇を自分らの政権運営に利用しようとすることがある。
沖縄の主権回復式典の時もそうだった。
挙げ句の果てに天皇万歳までやっている。
まさしく差別である。

388 長崎ぶらぶら節

今日もなかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」を読んだ。
長崎丸山の芸者愛八(あいはち又はあげはち)の一生を描く。
物語のなかばぐらいから出てくる古賀十二郎(こがじゅうじろう)と一緒に長崎の埋もれた歌謡を採取することを巡る話で最終段階で「ぶらぶら節」が出てくる。
二人は実在の人物である。
古賀十二郎は在野の学者、研究者でもとは豪商の息子で資産家であったが、研究のためと称して湯水のごとく金を使い、全財産をはたいてしまう。
家の中は本だらけ、子どもは9人で極貧の中でも研究する。
長崎学という研究をうちたてる。
大部の著作も残すなどかなりの成果をなすが、中央の大学などとは一線を画す。
一応大学(東京外語の前身)を出て英語の教師もするが辞めてしまって、研究一筋。
フィールドワークをしながら地道な研究をする。
古賀は英語のみならず10カ国語にも堪能だったらしく、在野の研究者としては並はずれた資質を持った人だったみたいである。
在野の研究者といえば和歌山の天才、南方熊楠(みなかたくまぐす)もそうである。
粘菌の研究で有名であるが、彼もまた言語の天才で20カ国語ぐらい分かったらしい。
愛八は1級の芸者であったが、気っぷが良くて手に入れた金はすぐ使ってしまい貧乏暮らし。
ぶらぶら節が西条八十の目にとまりレコーディングまでして大金を得ても知り合いの病気治療に使ってしまう。
最後まで金とは縁のない生活で死んだときは、家財道具などはなく電気も水道も止められていたという。
愛八のその生活ぶりは生い立ちにもあるのだが、明治大正期の一般庶民の生活ぶりと比べても底辺だった。
古賀十二郎の研究に懸ける情熱はすさまじいものがあるが、近々の研究者のコピペなどということからはほど遠い血の出るような地道なものだった。
愛八の生き方、古賀十二郎の生き方に学ぶ一冊だった。

387 リメンバー

なかにし礼「赤い月」上下2巻を読んだ。
女性を主人公として満州にわたった家族の栄華と悲惨を描いている。
特に日本のでっち上げの国としてのいい加減な国の成り立ちが満州を求めて渡った人々を敗戦と共に守ってやるどころか棄民してしまうという非情さを描く。
やはり軍隊は満州開拓民を守ることなく真っ先に逃亡するという事実があった。
引き揚げ時の混乱と悲惨は他の小説やドキュメンタリーなどでも知られるところであるが、8月9日前後の様子は日本人と中国、朝鮮人との立場の逆転をリアルに描いている。
戦争による人間の感覚の不条理さ、特に虐げられたものの持つ憎悪の噴出は目を覆う。
戦前の国家観が国民に与えた影響の大きさが垣間見える。
作者は主人公の生き様を通してその国家というものを裏から断罪しているのだ。
話は変わるが、作者なかにし礼のHPを見た。
その中になかにし礼の「核」に対する思いを歌にした動画があったので見た。
作詞した詩をソプラノ歌手佐藤しのぶが歌う。
この歌を作った言い出しっぺは佐藤しのぶらしいのだが。
この動画は記者会見の場での二人のトークと歌なのだが、半ばあたりと最後のところで佐藤しのぶがカラオケで歌う。
「リメンバー」という曲。
歌は佐藤しのぶの振り付きなのだがこの振り(手話)がなかなかいい。
ノーモア広島長崎でなくて、リメンバーひろしまながさきと歌われるのであるが、なかにし礼は「リメンバー」という言葉に思いを込めたのである。
ノーモアも大切な意味を持つが、リメンバーも今更ながら忘れかけているものに対してどうよと問いかけるし、福島が重なってまたリメンバーも意味を持つ。
忘れてはいけない、忘れてはいけない・・・・
だからこそノーモアも意味を持つ。
アメリカ人は「リメンバー・パール・ハーバー」といったので、日本人として「リメンバー・ヒロシマ・ナガサキ」といったのではないとなかにし礼は言っている。
それは「核」に対して世界に向けて発した言葉であるととらえるべきであるという。
ということで、この「リメンバー」という曲の入ったCDを注文してしまった。

386 妄想

昨日今日と外で仕事したら花粉症の具合が最悪になった。
鼻の奥はひりひりとして痛くはなみずが出る。
目も最悪、目茶かゆい。
外へ出るとき午前はマスクをして出たのだが、午後はうっかり忘れたのだった。
今日は籾蒔き用の箱に土入れをした。
水をまいて湿らせておかなければならないのだが、もう限界だった。
4月は残酷きわまる月、全くそうだ。
3月4月はハワイにでも別荘を持って移住したいものだと思う。
新聞に遺伝子組み換えした米を半年ほど一日一膳食べ続けると花粉症が治ると書いてあったが、ほんとなのか。
遺伝子組み換えが怖い気もするが、花粉症が治るならとも思ってみる。
ほかの方法で直す技術を誰か早く確立してくれないか。
チト手荒だがこんな妄想をしてみた。
今ある山の杉の木、及び檜を残らず切ってしまい、木質チップにする。
それを燃やして発電する。
発電所は小さなものでいいから地域地域につくり、発電で出た熱は地域全体の暖房や風呂、温水プールなどで使う。
電気は勿論地域で使う。
すると、山の木を切る雇用。木質チップ工場の雇用、発電所の雇用など正規社員として多くの雇用が望める。
木を切った後の山にも植林するための雇用も生まれる。
勿論植林の木は花粉の飛ばない杉や檜、それに広葉樹である。
木質チップは家庭用のストーブの燃料としても使える。
収支バランスは赤字に見えるし実際そのようであろう。
しかし、そこが頭の働かせどころ、誰か逆転の発想を働かせるものはいないか。
この妄想はしかし、北欧の国のどこかで実際実行されている事である。

385 見えない苦労

人間、欲張るとあんまりいいことがないという。
反対に、欲張ることをせずそこそこにたんたんと過ごせばいいことが転がり込んでくるという。
塞翁が馬みたいなことか。
山登りに一緒に出かける友人が腰痛や足の膝痛にかかり、当分の山登りは絶望的になった。
一人で行くこともできるがやはり友達がいた方が安全上もいい。
ということで今日そんなことを話していたら、一緒に行ける人ができてしまった。
このことは欲張ったからでも欲張らなかったからでもどちらでもないが、幸も不幸も突然襲ってくるということか。
ともかく山登りが途絶えないことは幸だった。
今日は九条の会の事務作業。
通信と映画のチラシを封筒に入れる。
1000枚以上あるので一人でやるには膨大すぎてあぐむ。
数人でやったのだがそれでもあぐむ。
B4の紙をまず二つにおり、それをさらに2回折って封筒に入る大きさにする。
ひたすら折って折って折って・・・・。
折ったらそれをチラシと一緒に封筒に入れていく。
ひたすら二つを重ねて入れて、入れて、入れて・・・・。
この単調な仕事。
雑談しながらといっても単調な仕事というのはあぐむ。
チャップリンのモダンタイムスの工場労働者を思いだしてしまった。
そこに何か創造的な行為が入り込む余地があるとか、完成する喜びがあるとか、何らかの見返りとしての楽しみみたいなものがあるとないとでは張り合いも違う。
こういう労働をされている人がいることには複雑な思いがする。
今日の作業はそうはいっても誰かがやらなくては事がなっていかない重要な作業。
ということで人生の裏側には見えない苦労があるものだという話。

384 年度初め

金曜日の晩のように、一週間が終わって明日からはお休みだといううきうき感と、1年が終わって明日から春休みといううきうき感は似ている。
しかし休みが終わって明日から月曜日が始まるぞという日曜日の晩の緊張感と、4月になって新しい年度が始まるぞという数日間の緊張感はあまり似ていない。
その始まる月曜日は一年が進むに従って憂鬱となる。
しかし4月の新しい年度を迎える数日は不安もあるが期待と希望でわくわくする。
それは憂鬱ではなくて高揚感である。
しかし、いざその現実が始まると、高揚感が薄れていく。
というパタンが多かった現役の頃だった。
新年度が始まる清新な気持ちは、現役を退いた今でも持ち続けたいものである。
流されるのでなくメリハリをつけた人生である。
昨日書いた弛緩と緊張である。
と、すれば何をしたらいいのか。
何か目標を持たなくてはいつものパタンになるだけである。
何をするのかを決めるのか先か何か目的を持つのが先か迷うところであるが、それは似たようなものか。
山登りをする、今年の目標は西穂高に登ること。か。
音楽を聴く、今年はバッハのロ短調とマタイとヨハネをしっかり味わう。か。
読書をする、今年こそは1万ぺージいや1万5千ページ読破、か、特定の作家の全集を読破する、か。
こんなんでメリハリがつくだろうか、とも思うが考えるとほかにもやりたいことはある。
どうしても趣味的なことのほうにいってしまうが、原発や憲法のことについての活動や、家のこと、田んぼのこと、地域のことなど細々としたことが頭に浮かんでくる。
それらのことを考えると流されてしまいそうである。
そこにも何か目的や目標を待たなくてはならない。
でもそんなことをいってると目標だらけになって結局どれもこれもできなくて流されて終わったということになりかねない。
・・・人生あまり欲張らないことだ。
が結論か。
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