443 対等の関係

病院へ行った。
待合室で待つ。
予約だからだいたい時間通りであまり苦にならない。
診察室の前でほかの患者の様子や立ち居振る舞いを観察する。
ふと思ったのだが、中へ入っていくとき、中から出てくるとき、あいさつをしている人が少ないように見えた。
でもしてないように見えてもすでに中でしてきたので、戸口のところではしていないのかも知れないと思ったりもする。
「お願いします」「ありがとうございました」という声があまり聞こえないような気がしたのだ。
でもやはり大人だし中でしてきたに違いないと思う。
患者と医師の関係はどうなのだ。
対等なのか医師が上なのか。
病気を診てもらうということは向こうが上になる。
でも診てやって、お金をもらうとなるとこちらが上か。
お店へ行ったときの商人とお客の関係と同じである。
とするとあっちも上でこっちも上で対等か。
などと思ったりもする。
学校はどうか。
教師と子どもの関係。
いろいろ教えてもらえるから教師が上。
でも子どもがいなければ教師も成り立たず、それでお金ももらっている。
となると子どもが上。
ということでこちらも対等か。
この頃は、親も目に見えて学校に来る(口出し、苦言)から2対1で教師の方が下か。
それでもやはり教師対子ども・親は対等であるべきでしょう、というのがわたくしの考えである。
スポンサーサイト

442 光

昨日のOB会は楽しかった。
老いて(というほどでもないが)ますます盛ん。
ボラチであるがそれぞれいきいきと活動している。
子どもたちの学びの場の計画・運営、大学講師、高校講師、九条の会運営、植林ボラチ主催者、公民館講師、古文書講師、けん玉講師、社会福祉士、政治運動、エトセトラエトセトラ・・・・
それぞれのりかたがあっておもしろい。
それはともかく、おひがしの新聞に、
「戦争によるすべての人の悲しみと、憲法9条を保持してきた人の努力や思いにがあたればいいな」鷹巣直美
という文が載っていた。
対談形式の文なのだが、二人ともごく普通のにぽんこくみんである。
この鷹巣直美(たかすなおみ)さんという人を知らなかったが、憲法9条を保持する日本国民にノーベル賞を、という提唱をしてくださったかたである。
その思いつきが素晴らしい。
オーストラリアで避難民と出会ったことがきっかけで、戦争と平和について考えるようになっったという。
ごく身近に戦争を感じ、それから平和の大切さに、そして9条について考えるようになったという。
日常的になんにも知らないでも9条によって平和に暮らせていたということに気が付くのである。
知らなくても守られているとは、実に素晴らしい。
だけどそれを知ることによって、今度は主体的に守ってくれている元のものすなわち9条を守っていく、あるいは立憲主義の立場から為政者に守らせていくという行動ができるようになったということである。
知るということがこの人を変えたのである。
やはり知ると知らないとでは全然違うということであり、知ることの重要性が分かる。
この人も知ることによって断然り出すのである。

441 選挙

s-キンギョソウ

キンギョソウ 本文とは関係ありません。
昨日のヒャクタの続きだが。
俺たちが受信料を払って成り立っているのに、そこの委員が常識はずれなことを言ってのうのうとしているのを許すわけには行かない。
そもそも俺たちが金を払っているのに政府から選ばれるのは心外だ。
奴らは選挙で選ばれたわけではない。
なのに威張りくさるのは全く言語道断。
奴らが吠えれば吠えるほど、奴らの無知ぶり、傲慢さ、非道さを自ら公衆にさらすようなものだ。
選ぶのなら俺たちにも選ぶ権利がある。
選んだところで常識はずれと思われたなら、罷免する権利も俺たちにあっていい。
上から目線のトップダウンの方式は民主主義とは言えない。
そういうのはいくつもあるのじゃないか。
教育委員もそうなってしまったし。
そういえば農業委員というのは、今はまだ選挙方式だ。
唯一ではなかろうか。
といっても、自分の経験ではこれまで選挙の経験がないが。
たいがい無投票で決まってしまうからだ。
誰かがやめると持ち回りみたいにして次の誰かが誰かによって指名され穴を埋めて無投票というわけだ。
形式は民主的だが、実質はあまりたいしたことない。
・・・今日は出かけるので早めに書いてみた。

440 品格

この頃左の肩が痛くなってシャツを着るときなどきゃーとなってゴキゴキと音がして痛い。
それで整形外科へ行った。
ヒアルロンサンという聞いたことのある注射を打ってもらった。
1週間ごとに5回ぐらいやるそうである。
2回打った。
少し楽になった。
何とかテープという奴も肩に貼っている。
病名は五十肩。
60歳を過ぎても五十肩とはこれ如何にであるが、呼び名はともかく人間どこか痛いと辛気くさいものだ。
この間まで腰が痛くて整体にも行ったのだが、またこちらも痛くなった。
肩と腰。
今回はまず肩をよくしてから腰の治療にかかろうと思う。
6月になったら山登りもしたいし、動き回るにはやはり足腰が丈夫でないとだめだ。
それはともかくNKHの委員の百田氏。
またまた放言。
委員としての立場で言ってないと言うが、立場がどうのの問題ではない。
百田が話をしたら委員の名前は付いて回る。
放言したかったら委員の座を降りるべきなのだ。
ヤスクニも個人の立場で行ったとかいうやつもいるが、それも同じ。
議員という役名が個人としてだって剥がれ落ちるわけではない。
方便である。
人としてのなり、品格がない。
人を馬鹿にしているとしか言いようがない。
笠に着るというか、虎の威を借るというか、大船に乗った気持ちというか、謙虚さがないというか、人としての品格が落ちるというか、大言壮語というか、上から目線というか、ジミントーというか。
つくづく品格がない。
やめさせるほかないだろう。

439 ラ・スカラ2

昨日ラ・スカラのパート1がよかったので今朝方はパート2を身を入れて聞いてみた。
こちらもパート1に劣らずちょっと趣向は異なるが聞き応えのある内容だった。
聞きようによってはこちらの方が聞きやすいかもしれないし、変な言い方かも知れないがロマンチックな感じもする。
出だしは普通に始まるが、そのうちフリーっぽくなり、無調的で前衛的。
荒っぽい。
しかし、高音部を高速で演奏する様はすごい。
ハープの弦をじゃらじゃらんとかき鳴らしている感じ。
全体的に高音部をよく使ってかき鳴らす感じである。
バッハなどを演奏することもあってこの高音部はそれらのフレーズと似たところもある。
無調的なところからまた調性のあるフレーズに戻って音楽は高まる。
例のうなり声も聞こえる。
鍵盤をたたきつけるような感じで弾いている。
そのうちリズムはゆっくりになり一音一音をしっかり刻んで、時々高速のフレーズを交えながら進む。
ややブルースっぽいところがあって気持ちがいい。
そしてまたフリーっぽくなって荒々しくなり突然エンディング。
それでも27分ほどの大作であった。
もう1曲最後はアンコールだろうがオーヴァー・ザ・レインボウ。
緊張していた筋肉がゆるんでいく感じのゆったり感がよかった。
このところキースが我がメイン。
クラシカル・キースとジャジー・キース。
どちらもなかなか。
プレイヤーでありコンポーザーでもある。
40年来のつきあいであるが、キースは衰えを知らない。
音楽的には熟成というか深まりというか枯れてきたというか、余分なものを取り払い心髄に迫っていると言えようか。
しかし70年代の演奏もこの頃新しくCD化されているが、古さを感じさせない。
来日の折りにはまたライブを見に行きたいものだ。

438 ラ・スカラ

41H10XQW16L[1]

明け方、うつらうつらとしているとき耳にはめ込んだイヤホンからウンと思わせるメロディが聞こえる。
はっとする。
胸を撃つメロディだ。
3時半頃に少し目が覚めて音楽でも聞けば眠れるかと思って適当に流しておいたものだ。
あまり聞いたことがない曲だったのでアイポッドをつけて確認してみる。
それはキース・ジャレットの「ラ・スカラ」というCDの一曲目だった。
ラ・スカラのパート1である。
イタリアのスカラ座で行ったソロコンサートのライブ盤。
いわゆる即興曲だろうが、1曲目は45分ぐらいあり長い。
その中のある部分のメロディが覚醒させたのだった。
メロディと言うよりリズムかも知れない。
あるいはリズムと一体となったメロディが言い方としては正しいか。
あるところから左手が小気味よいリズムを刻み出す。
その単調な1フレーズが延々とリフレインする。
そのリフレインぶりが麻薬のように癖になるのだ。
そしてそのリフレインする左手の動きに乗って右手が奔放に動き出すのだ。
この奔放さがさすがキース。
変奏に変奏を重ねていく。
うーん、キースのジャズである。
彼は興に乗ってうなり出す。
あー、うー。
多分からだは浮いているだろう。
ピアノの椅子から離れて、立って体を反るようにして弾いているだろう。
あるいはしゃがむようにして手は頭の上の方で弾いているかも知れない。
そのリズムが収束していき音も小さく収束していきエンディング。
それにしても長い。
明け方のキース。
明け方のピアノ。
明け方のジャズ。
すっかり心がピアノの一音一音を追いかけていた。

437 生態異常?

養蜂業者がどこかに箱を置きたいのだがどこかないかと尋ねてくるので古い我が家の跡地を紹介した。
試験的に置いてみるそうである。
こんな杉や檜ばかりの山の中で蜜は採れるのか。
花の咲く木は少ない。
となると野に咲く花しかないのだが、野は意外と少ない。
田んぼにレンゲでもあれば良いが最近はレンゲを作る農家はほとんどない。
菜の花もほとんどない。
でも、養蜂業者はやるといっている。
田んぼではやはり農薬もまいている。
ミツバチの少なくなった原因にネオニコチノイドという成分が入った農薬がある。
これはこのあたりでもカメムシ駆除用の薬に含まれている。
完全にそれが原因になるという証拠は今のところ確定してはいないが、西欧でもそういわれているらしい。
試験的にやるというので結果はどうなるか分からないが、楽しみと同時に恐れもある。
そういえばツバメをみない。
この前、田の代掻き時分に飛ぶのをみた記憶はあるが、それ以後見ない。
今ならどこかに巣を構えてせっせと餌を運んでいる時分だ。
そういえば雀も見ない。
見ることは見るが極端に少ない。
見ないくらいと言っても良い。
ほかの鳥の鳴き声は耳にするが、どうしたのだ雀。
鹿はせっかく張った網を飛び越え電牧線を切って侵入している。
鹿は増えている。
狐の鳴き声を前はよく聞いたが近年全然聞かない。
どうした狐。
というわけで、何かしら不気味な動物たちの異常を感ずる。

436 サーターアンダギー

ふとテーブルの上を見るとサーターアンダギーらしきものがのっていた。
手にとって見るとやはりそうであった。
私にとってサーターアンダギーは菓子の中で最上部に属する好きな菓子である。
初めて食べたのは、10何年か前にオキナワを訪れた時だった。
そのくらい前だったらおそらく本土にも売ってあっただろうが、認識外だった。
オキナワの菓子といえば、チンスコウというものもあって、娘はこっちの方が好きという。
しかし、やはり私はサーターアンダギーだ。
小麦粉を練り合わせて揚げただけのようで自分家でもできそうなものであるが、おそらくできないであろう。
冷めていても美味しいが揚げたてでもきっと美味しいに違いない。
初めて食べたとき、初めての味に感涙したものだった。
オキナワやるジャンと思ったものである。
オキナワに来てよかった。
よしまた来るときはサーターアンダギーを食べまくるぞ。
と思ったものである。
なのでオキナワと聞くと、さっと思い浮かぶのがサーターアンダギー。
よくぞオキナワンチュ、こんな菓子を発明したものだ。
菓子の部類でのノーベル賞ものだ。
世界の菓子の中でも上位から10番目の中には入るだろう。
現役のあるとき、子どもたちと買い物実習に行ったことがある。
そして、コンビニに入ったらなんとサーターアンダギー!があるではないか。
そのコンビニではそのときにオキナワ特集?みたいなものをやっていてサーターアンダギーが並べられていたのだ。
おおこんなところにサーターアンダギー!。
ここで会ったが百年目、って違うか、それとも晴天の霹靂、とも違うか、では地獄で一輪の花、とも違うか。
・・・ともかく田舎にオキナワが来たという感じ、珍しいの百乗だった。
珍スコーでなくて珍百乗サーターアンダギーであった。
それは棚できらきら輝いていた。
私は熱に浮かされたようにそのサーターアンダギーの入った袋をほとんど残らず買い占めていた。
そして職場に持って帰って同僚達に配ったものである。
どーだ俺の買ってきた菓子、うまいだろう。
とほくそ笑む。(という言い方は違うか)
そのころ私は時々、同僚達にドーナツや鯛焼きなどを買ってきて、どーだをしていたのだが、このときほど自分の中でどーだが盛り上がったことはない。
あのサーターアンダギー!
思い出深いサーターアンダギー。
私はじっくりとあのほくほく感を口の中で味わいながら、そしてあのオキナワの青い海を思い浮かべながら食べる。
最高だなーサーターアンダギー。

435 馬鹿

ふと思ったのだが、それは今日町へ行くとき鹿に出会ったからだが、なぜバカを馬鹿と書くのだろうと。
馬と鹿と書いてバカという罵倒語になるのは何故ということである。
ネットで調べたら、ほんとは莫迦(ばくか)と書いていたそうである。
その発音がやがてバカなった。
もともとはサンスクリット語で無知や迷妄を意味するbaka やmohaの音が写されて莫迦→馬鹿になったとある。
馬鹿と書くのは当て字だという。
馬や鹿が出たのは、中国で鹿を馬であるといって献じた者の権力がいかにも強かったので反論できなかったという故事から来ているらしいが、ほんとは「ばろく」と発音するので馬鹿とは関係ないという。
鹿という漢字のことで余談だが、「ろく」という読み方のほかにもう一つあることが今日の新聞で分かった。
「鹿目」「鹿屋」「鹿子」という場合の「かの」という読み方。
かのめ、かのや、かのこである。余談終わり。
鹿を馬といってはばからない馬鹿も現代にいる。
「原発はコントロールされています。」
「原発は安全です。」
「この憲法では集団的自衛権はあると書かれています。」
「私は最高責任者です」
みんな馬を鹿といっているように聞こえる。
「馬鹿は死ななきゃなおらないー」広沢虎造

434 グッド・ニュース

ふと思ったのだがTPP交渉。
全く秘密裏に交渉が行われている。
交渉に参加すること自体が公約違反なのに、交渉に入っても秘密で行うとはバカにするにも程がある。
早くも豚肉の関税が危ないらしいという話は聞こえてくるが、5品目自体が危なくなっていると言うことだ。
民主的な会合ならばすべて公開が原則である。
いずれにしてもこれほどの交渉方法は許すわけには行かない。
どうせハメリカのいいようにされるに決まっている。
5品目が通らなかったら撤退するという当初の話もどこへやら。
ベアは初めからそういうつもりだったのだろう。
今度は農協つぶしをやろうとしているし、TPPに前のめりになるあまり農業を切り捨てようとしている。
それはさておき、今日はたまたまグッド・ニュースも。
一つは、大飯原発3,4号機差し止め判決。
二つは、厚木基地の自衛隊夜間飛行訓練差し止め判決。
それに三つは、竹富町の教科書単独採択OKである。
一つ目二つ目はどうせ控訴されるが一度でも差し止めの判決が出たことは大きい。
日頃バッド・ニュースばかりにならされていると、こういうニュースは新鮮である。
司法の右傾化がいわれて久しいが、下級審ほど骨のある裁判官がいるみたいである。

433 自由

ふと思ったのだが、グレン・グールドはバッハのゴールドベルグ変奏曲をピアノで演奏している。
キース・ジャレットは、それをチェンバロで演奏している。
同じくグールドはヘンデルのチェンバロ組曲を今度はチェンバロで演奏している。
しかしキースはそれを今度はピアノで演奏している。
これって、キースがグールドと反対のことをしている。
そのこれってキースがグールドに対して、対抗心?を出しているのじゃないか。
彼がピアノなら俺はチェンバロで行くぞみたいな。
まあそれはそれとして、このところそのチェンバロにintoしている。
キースのゴールドベルグはほんとに味わい深い。
閑話休題
「世界」6でチョムスキー教授が堤未果さんにインタビューされている。
いろいろここで話題にしたいことはあるのだが、教授は最後にニポンへのメッセージということで、「自由のために闘いなさい。」と言っている。
その自由とは誰のための自由かというと、民衆や民主主義や未来を選びとる自由のためだと未果さんが続けている。
民衆の自由とは民主主義の自由であり、民主主義の自由とは未来を選びとる自由なのだろうと読んだ。
未来を選びとる自由が今や子どもたちにあるだろうかと思うのである。
若い世代は未来に対してきゅうきゅうとしている。
そうせざるを得ない。
とすればやはりそれは闘いとるしかない。
恐れてはいけないと教授は言う。
自由のために闘うことは前からやってきたことには違いないが、今まさにさらに本気でやっていかないと取り返しのつかないことになるのではないかと思うのだ。
ここまで。

432 統制

ふと思ったのだが、公務員が就職するとき、自分は憲法を遵守して仕事をするというような誓約をする。
教員もそうである。
警察やその他の公務員もおそらくそうであろう。
ハメリカの大統領は就任するときは聖書に手を当てて、自分はハメリカ憲法を維持し保護し守ることを誓うということが決められているらしい。
にぽんの国会議員や首相や大臣になったものはそういう誓約をしないのだろうか。
ハメリカのように眼に見える形で誓約する姿は見たことがないが、憲法99条では遵守規定があるから当然遵守義務はある。
ハメリカみたいに一人一人が宣言したり、少なくとも大臣クラスはそういう宣言をするところを見えるような形にするべきだと思ったのである。
ベア等はすっかり99条のことを忘れているかわざと無視しているかないがしろにしている。
国眠(国民)もおおかたは99条のことをあまりよく知らないのではないかと思ったりもする。
今日のニュースでどこの局かは見落としたが、集団的自衛権を容認するかどうかの世論調査結果を出していたが、70%が容認という結果を出していた。
これにはびっくりした。
つい2,3日前の別の世論調査では50%以上が反対という結果を出していたからである。
どうもきな臭い。
前が50%以上反対だったので今度は意図的に賛成の方を多く出したのではないか。
情報の意図的統制は多分今に始まったことではないがいかにもいかにもという体たらくである。
秘密保護法が通った今、さらにそれは強まるだろう。
すでに我がブログも赤丸がつけられているかも知れない。
などと思ったりもする。
思った時はすでに遅し、そのくらいのスピードでやってくるのだ。

431矛盾

ふと思ったが、ベアは国民の命と暮らしを守ると強調した。
会見の時20回は言ったという。
集団的自衛権(他衛権)を発動して自衛隊を派遣したとしてその結果国内にいる国民を守ったとする。
国内の国民の命は守ったがそれでは自衛隊員の命はどうなんだ。
戦闘したなら命の保障はない。
自衛隊員も国民のうちならば国民の命を守ったことにはならない。
ベアの命は守ったかも知れないが自衛隊員の命は捨て石なのである。
欺瞞とごまかしと矛盾と嘘である。
もともと戦闘行為が可能な自衛隊は憲法違反。
個別的自衛権という言葉を使用してあたかも憲法の範囲内というごまかしをしただけ。
「陸海空軍はこれを保持しない」はシンプルで意味は単純。
個別的も集団的も関係なく軍に相当するものは持たないと言っているのである。
ごまかしは次のごまかしを生むということである。
解釈もへったくれもない。
ベア等が勝手に憲法を解釈して変えようと言うのは、そもそも99条違反の憲法違反である。
議員の長たるものまずは範を示すべきである。
そもそも第1次の時、突然辞任するという愚行を恥じて議員辞職をするべきなのに脳天気にも議員は続行という恥の上塗りをしているところがみっともないの100乗である。
立憲主義を知らない憲法違反の長は即刻退陣するのが常識のある議員の道である。
(道まで説いてしまったよ)
(おぼっちゃんだからね、こーでもしないとわからないよね)
(ひらがなよめるかな)
自分で守らないくせに、自分で勝手に作ったおかしな憲法を国民に守らせようとするのも矛盾であるよ。
欺瞞とごまかしと矛盾と嘘だな、どこまで行ってもやはり。
(むじゅんていみわかるかな)
(ぎまんていみわかるかな)
(うそならわかるだろう、いつもうそついてるからね、でもねそーいうことやめなよ)
(ついでに議員もやめなよ)
憲法は不滅ですと長島さんもいってるだろう。
九条も永遠に不滅なんだよ、世界史的に見ても。
・・・と私は永遠に思う。

430 隗より初めよ

戦争はいやだ集会に行ってきた。
ナイスタイミングの企画。
やはりいても立ってもいられないほど心騒ぐことが起こった後である。
何かしなければという気持ちが集会に向かわせた。
メインは講演。
愛知の弁護士、中谷雄二氏の話。
さすが弁護士、話が筋道だっていて論理的、しかも弁舌快調、堂々と自信満々に話をされる。
ベアとはだいぶ違う。
秘密保護法の時の国民の動きが初めはあまりぱっとしなかったが、時間が経つに連れてだんだん大きくなっていった。
それが彼らには予想外だったということで現在改憲への動きも少しスピードが落ちていると言うことだった。
会見の時、ベアはあのいんぽほーけい懇の出した提言をそのまま出していなかったという。
いくら提言を出されても、初めから自分の考えていたことを言うつもりであって提言はあってもなくても同じだったというわけである。
要するにアリバイづくりである。
あんな私的な諮問機関なんか確かにあってもなくても意味はないものだ。
アリバイづくりと同時に責任転嫁、箔づけのつもりなのである。
国民の声なんか初めから無視。
国民の声なんか聞いたら反対が多くなるから聞こうともしないということだ。
少しだけレジュメからコピペする。
第一次いんぽほーけい懇では、4つの類型というものを出したが、今回2次のほーけい懇では6用件で行使容認を出している。(ここからコピペ)
1,国会の承認は事前が原則だが、緊急の場合は事後も認める。
2,密接な関係にある国が攻撃される。
3,放置すれば日本の安全に大きな影響を与える。
4,攻撃された国からの明示的な支援要請がある。
5,首相が総合的に判断する。
6,第3国の領海などを自衛隊が通過する場合は許可を得る。
なるほどベアはこれらのことに触れることなく、二つのパネルを出して具体例として説明をしていたが、これらのこととは全く関係がない。
一つのパネルは邦人を米が救出して米艦船に乗せて輸送しているがこれを自衛隊が守ることができないという。
またPKOが武力行使できないことを述べる。
二つの事例のことについては異論もあり首相の説明には矛盾があると新聞でも批判している。
新聞のその記事にはほかの矛盾点も指摘しているし、何より論理でなく感情論での訴えが多かったと批判する。
子どもや老人、女性をパネルに描かせたり、中国船の侵入問題や北のミサイルが射程内など不安や恐怖をあおるようなことを言って納得させようという集団的自衛権とは関係のないことを言う。
新聞もそういう批判的なことを解説する新聞もあるが、今後秘密保護法の元で情報統制というか報道の萎縮が起こる可能性もある。
こういうまともな記事に対しては激励したりすることも大事だと弁護士は言っていた。
県版には秘密保護法や集団的自衛権容認反対の行動をするある市民団体のことを写真入りで記事にしていた。
中谷弁護士は今後われわれはどのようにしていけばいいかを事例をあげて紹介した。
まず世論を盛り上げること。
それは国会前だけの行動でなく、地域から地方から盛り上げていくことの重要性を説いた。
そして、まともな記事を書いたり報道したりするマスコミとの連携と相互作用による世論喚起。
最後には国民の一人として、まず隗より始めよではないが、まず自分からそして身近なところから、そして地方から運動を盛り上げて行くことの重要性、有効性を再認識した。
1時間半の講演をほんの一部しか伝えていないしもっと書きたいところもあるが長くなるのでひとまず終わり。
中谷弁護士、我が地にも来てもらおうか、と車中同乗者と語ったものである。

429 日常

1945年、戦争が終わっても昨日に変わらぬ今日が続いていた。
2014年、集団的自衛権容認へ一歩進んでも昨日に変わらぬ今日が続いている。
昨日の日常と今日の日常に変わりはない。
しかし、上辺は同じでも社会の意識の底に流れる日常は、戦争が終わったときの日常と集団的自衛権容認への一歩進んだ日常とでは180度違っている。
あちらがきらきらした日常だとすれば、こちらは暗黒の日常だろう。
あちらが希望に向かう日常だとすれば、こちらは苦難に向かう日常だろう。
あちらがおよそ国家など気にすることもなく過ごす日常だとすれば、こちらは国家を常に意識する日常だろう。
あちらが友情と連帯の日常だとすれば、こちらは憎悪と秘密の日常だろう。
あちらが楽天的日常だとすれば、こちらは悲観的日常だろう。
あちらが幸福な日常だとすれば、こちらは不幸な日常だろう。
あちらが上昇的日常だとすれば、こちらは下降的日常だろう。
あちらが美味しい日常だとすれば、こちらはまずい日常だろう。
あちらが安心安全の日常だとすれば、こちらは不安と恐怖の日常だろう。
あちらが開放の日常だとすれば、こちらは閉塞の日常だろう。
この歴史上の転換点は後世の歴史家がどう判断するか。
それはもう分かり切っている。
ベクトルは悪の方向へ向かっていると言うだろう。
禍根だったのだ。
災いの元だったのだ。

428 禍根

できレースの結果をとくとくと語るドバカ首相。
公正さも公平さも全く無しのいんぽほーけい懇の言うとおり。
そんなもんあってもなくてもおんなじジャン。
いんぽほーけい懇メンバーには学識も良識も良心のかけらもない。
シェイム・オン・ユー・ほーけい懇。
自衛権もほんとは無いのが九条。
その上に他衛権などあろうはずもない。
いずれにしても歴史上の大汚点。
禍根を残した。
身内にも憂慮・反対するものがいるがいくらその数が少ないからといってもっと激しく抵抗するべきだ。
このままじゃ同じ穴のむじなとして同罪である。
99%は暴動を起こすべきである。
といって何もそこらをたたき壊せというわけではないが、1000万の大デモでもやるべきである。
会見の説明の具体事例の稚拙さよ。
説明にもなっていない。
何度も「国民の命と暮らしを守る」のが政府の役目だといっていたが、全く口先だけ。
イラクの人質を見殺しにした政治家がいるだろう。
原発で命を落とした人がいるだろう。
いまだに原発に命を脅かされている人がいるだろう。
それがなぜ命を守るに繋がる?
オキナワの人たちの命はどうなのだ。
日々危険にさらされているじゃないか。
暮らしだってオキナワやフクシマの人たちの生活は良いと言えるのか。
守っていると言えるのか。
非正規や派遣の人の暮らしは良いのか。
いまだに暮らしに不安を覚え自殺者は絶えないじゃないか。
ホームレスの人や生活保護を受ける人は増えるばかりじゃないか。
このくらいの批判は俺でもできる。
会見場にいた記者達の質問もとろい。
というかこれもできレースかも知れないが、あらかじめ聞くことは決められていたりして。
骨のある奴はいないのか。
メディアの死だ、また戦前と同じになってしまう。
どうせ明日になったらドバカの会見の様子を垂れ流すだけだろう。
NKH(ニホンコクエイホウソー)のニュースで某大学の教授は立憲主義が危ないと言っていたがその通り。
また対する某大学の教授は現実が変わってきているから変えるべきである、と言っていたが、ナンセンス。
憲法は理想だとすると、現実を理想に合わせるべきで、理想を現実に合わせるなどは憲法に失礼である。
それを地でいくのがドバカ首相であるが、理想を求めない政治家は三流政治家である。
子どもたちの見本ともなるべき奴らが理想をかなぐり捨て、命や暮らしを守りますよーなんて言うのはお笑いぐさだ。
夢も希望も持つなと子どもたちに言っているようなものだ。
教育の統制は基本法の改悪から始まって、学校教育法を改悪したりして子どもたちを自分たちの都合のいいようにしようとしているが、戦争になったとき従順な人間が必要だからだ。
・・・と、怒りで血圧が上がってしまったが、降圧剤はドバカを倒すことしかない。

427 権利と義務

今日の新聞で、集団的自衛権は□□□□権利という特集をしている。
誰がそう名づけたかは省いてそれを列挙してみた。
・日本が米国の舎弟や下僕になる権利
 ・徒党型交戦権
 ・拡張型交戦権
・自衛の名をかたって軍国少年を量産する権利
・九条を空洞化させる権利
・隣人の不信を増幅させ、警戒させてしまう権利
・よその国によってたかって攻め込む権利
 ・集団的外征権
・米国の戦争を手伝う権利
・弱いものいじめをする権利
・むしろ国民の権利をないがしろにするシステム
以上11の権利が述べられていた。
その解説ももっともである。
そのどれもが戦争に自らが向かう権利、すなわち戦争のできる権利に収束する。
九条は戦争をしない権利だからこれと真っ向から対立する。
だから勝手な解釈の変更は全くでたらめであり、あり得ないことである。
権利ばかり主張し国民は義務を忘れていると昔からうそぶいてきたくせに、今回は勝手に解釈の変更までして自らでたらめの権利を主張しようとする。
そしてそれを国民に押しつけようとする。
憲法は押しつけられたものというくせに、自らが押しつけようとする。
あほらしい。
そして権利よりも義務だというくせに、自らは憲法を守る義務を果たそうとしない。
でたらめばかりの官邸団である。

426 記憶と記録

記憶を記録に、記録を記憶にということでブログを書いているが、記憶が危なくなってきた。
古い過去のことは割合思い出せるが、近い過去、たとえば今日のことなど振り返ってみるに、あれれ今朝午前中は何をしていたんだっけとなる。
さすがに四苦八苦して思い出そうとしていると思い浮かんでくるが、では昨日のこと、一昨日のこととなるととんと浮かんでこないか、昨日のことだったのか一昨日のことだったのか曖昧になったりする。
この前ガソリンカードを買ったのだったが、これがいつのことだったか分からない。
自分は、1年間にいくらお金を使ったかを知るために、エクセルに使った金額を記録している。
電気料金や、上下水道料金、電話料金なども1ヶ月ごとに通知が来るので別に記録している。
新聞代など口座で落ちているのもあるが、通知が来ないのは記録していない。
そういえば携帯電話代はこの頃ネットで見られるせいか通知が来ないので記録が途絶えた。
ということで、通常買い物などで使った金額の一年間の総額は12月31日に分かるわけであるが、やはり年によってそれはまちまちで幅がある。
およそ50万から90万くらいである。
多いのか少ないのかどうだろう。
これは、一家の総計ではない。
家内は家内で別に使用しているから一家で合わせたらもっと多くなるに決まっている。
年金生活者の使用ぶりとしていかがなものか。
誰かと比べたこともないからその辺は分からない。
しかし、年間所得200万ぐらいの人から比べると贅沢な金額になっているかも知れない。
自分は酒もたばこもやらないのでそういう人から見れば支出は少ないだろう。
ほかに節約としては近くに出かけるときはできるだけ車に乗らない。
歩くか自転車。
本はできるだけ図書館利用。
菓子や飲み物など嗜好品はできるだけ家内の買ってくるもので我慢。
・・・ぐらいか?
時に爆発的に金を使うこともあり、折角の節約ぶりがぱあになることも。
これはいわゆるストレス解消みたいなものである。
断捨離という言葉があるが、それに近づけようとしているが、少しは近づいたかもしれないぐらい。
金を使わない方法は無人島に行くのが一番いいが、そういうわけにも行かない。
金に縛られるのはいやだ。
だが、日々金のことばかりを心配しながら暮らしているわけでもないからその点は幸せだろう。
誰かさんみたいに人の金(税金)を使って好き放題している奴ほど罪深いやつはいない。
このものらの歳費は断固通常国民の平均所得にするべきである。
あるいはそれ以下に。
記憶と記録の話が金の話になってしまった。

425 とんでも官邸団Ⅴ

とんでも官邸団の話をひさしぶりに。
配役:とんでも総理(ベア=クマ)、ガス官房長(ガス)、やぶにらみ幹事長(ヤブ
ガス:ソーリ、外遊お疲れさんでした。歴代最高の外遊ですぜ。
クマ:こーでもしないと、世界に名前が売れないからね。ってことは内緒だけどね。
ヤブ:でも、ハメリカなんかでは、結構売れてますぜ。但し今度のクマは危ない奴だと悪評が強いみたいでごじゃいますが。
クマ:何、悪評だって、あんなにバラクをおもてなししてやったのにか。それにオキナワだってヘリパッドなんか作ってやったのにか。
ガス:まあまあ。それより、集団的自衛権は早くやっちゃいましょうぜ。
クマ:あわてんでももう筋書きはできてますっ。安保包茎、でなくてほーせー懇はみんな身内みたいなもんで、ボクの包茎友達ばっかだから。
ガス:でもやはり見栄えは大事ですからな。特にコーメーが何というか。
ヤブ:あのね、そういう場合は、「丁寧に」という言葉を使うとよろしんでごじゃいますよ。「丁寧に説明して納得してもらう」と言うんですわ。
ガス:平和の党とか言ってるけどそんなに簡単に行くのかい。
ヤブ:行かなければ置き去りにするんですわ。
クマ:君はやぶにらみしながら丁寧になんて言うけど、本音は置き去りだな。
ヤブ:いやいやわたくしは丁寧にと申し上げているんですわ。丁寧に置き去りにするというか。
クマ:なるほど、それはいいね。「いいね」ボタン、クリックー。1いいね獲得ー。
ガス:ミンシュのやつらも、投票法案賛成でちょろいもんですな。
クマ:あいつ等も私らと同じで国民の声が聞こえていないのさ。もう政権復帰なんかできないくせに。
ガス:ソーリの好きな教育改革もあわせて通っちゃいましたしな。
クマ:うん、なんと言っても18才までに私らの考えに従順な子どもを作る必要があるからね。
ヤブ:ということで学校の管理職の権限や教育委員会の権限の改変や大学の教授会の権限を無くして学長独裁にしようというわけですな。
ガス:TPPももう少しですな。
クマ:風呂人間が結構強硬だったけど、風呂好きだから温泉接待でもしたらどうかと大臣に言ったんだが、それはアンマリだ、温泉接待なら俺にしてくれと疲れた表情で言っていたよ。
ガス:まあとにかく、国民には秘密のうちに進んでいるから、どこかでまたごまかすか嘘付くことが必要ですな。
クマ:嘘ならわたくしにまかせなさい。得意だから。
・・・だんだん本音が出てくる官邸団であった。

424 高江の今

九条の会映画会「標的の村」に行く。
346で書いたように沖縄高江のヘリパッド阻止闘争を描く。
会場の準備ができたところで家に戻り、知り合いに頼まれた田んぼの田植えをする。
10時半から1時半までかかった。
遅い昼食の後再び会場へ行く。
映画は午前午後と2回上映。
映画で高江のことは知ったが、しかしその後高江はどうなったのだろう。
結局押し切られてヘリパッドは作られてしまったか?
そういう情報はなかなか入ってこない。
先日9日の新聞の片隅の小欄に高江のことが出ていた。
やはり「ヘリパッドは建設が進み」とある。
そして天然記念物のノグチゲラの巣や雛が確認された。
生活が脅かされるのは沖縄県民だけではないと結ばれている。
ヘリパッド建設に対するちょっとした揶揄的な表現で終わっているが、本土の人間にとっては、また自然保護のことか、ぐらいにしか感じられない。
しかし高江のことなどは全く知らんぷりの新聞が多い中で載せるだけでもいいとしよう。
それで、高江のことをネットで調べてみたら、やはり沖縄のことは沖縄の新聞が詳しい。
琉球新報によると、高江のヘリパッドは8割方完成で、来月すべて完成(2014/2/14付け)とある。
そしてノグチゲラの営巣期にも工事続行とある。
高江のことについてはほかにもある村議会で建設反対の意見書が可決されたとか、記事がいくつも出ていてさすが地元の新聞だと思うが、ほんとは全国版の記事にしてもいいニュースばかり。
工事で出た赤土を適切な保管をしていなくて条例に違反しているとか、
高江の未提供地に米軍ヘリが勝手に着陸した問題とか、
4月10日付けでは新設着陸帯6カ所のうち2カ所が完成したとか、
住民の反対にかかわらず強引に進む工事のことをニュースにしている。
米軍でなくてにぽん国の役人がやっていることなのである。
目をつぶる本土というわけである。
集団的自衛権を強引に自分に都合のいいように解釈して進めようとしているからこそできる技なのだろう。
いずれこのつけは大きく彼らに回さなければならない。

423 シュール好き

絢香のほかの曲は知らないが「にじいろ」を聞くと、私の好みの声である。
今時の歌はほとんど知らないが、朝ドラで毎日聞いていると、自然と覚えていい歌だと思えてしまう。
朝ドラの歌はあまり好きになれない歌もあったが、「にじいろ」は自分にとってはいい感じ。
♪これから始まる あなたの物語り ずっと長く道は続くよ ・・・
なかなかいい。
そしてこんな歌詞が続く。
♪眩しい笑顔の奥に 悲しい音がする  ・・・
ちょっとシュールっぽい歌詞の作り方である。
笑顔と音とは結びつかないからシュールっぽい。
西脇順三郎にも、音を使った表現があるので思い出した。
「春の朝でも 我がシシリヤのパイプは 秋の音がする 幾千年の思ひをたどり」
春なのに秋というと時間的空間の広がりを感ずる。
それが幾千年というもっと長い時間まで拡大するすごさ。
これだけの詩の中にはもっと深い文学的裏付けみたいのがあるのだが素人には分からない。
分からないけどそんなことは知らなくてもこの詩はおもしろいと感じる。
この詩を初めて読んだとき、パイプというのはタバコを喫するパイプのことかと思った。
たばこを吸うときのすぱっすぱっという擬音が秋の音かと思ったのだ。
この詩には題が付いているがそれは「カプリの牧人」という。
このカプリという地名だろうが、音の感じがたばこを吸うパイプを連想させてしまったのだ。
カプリは並べ替えるとプカリとなりその音の連想はやはりタバコのパイプである。
ほんとはこのパイプというのは葦で作ったパンパイプというものらしい。
長さの違う葦の茎のパイプ状のものを横にいくつも並べた形のものである。
BTW 今日は公民館のスポーツ教室ではやりのノルディック・ウォークというのをやってきた。
ストックをもって歩くスポーツである。
風が冷たい日であったが歩くうちに汗が出てきていい運動になった。
花粉の季節はウォーキングができなかったがこれからはもう飛ばないのでまたウォーキングができる。
ストックの販売もしてくれたので思わず買ってしまった。
高かった。
登山用のも持っているので要らないかと思ったが買う人も少なかったので買ったのだった。
でも登山用のものとは握るところが違っているので似ているといってもやはりそのように作られている。
持ち腐れにならないようにしなければならない。
大丈夫かな?

422 矛盾

今日も田んぼに行く。
3枚の田んぼを代掻き。
水を入れつつ掻く。
今日は水がたっぷり流れていたのでやりやすかった。
この3枚の田は何も作らずに休む。
なのになぜ代掻きをしたか。
それはこうしておけば来年水稲を作るとき作りやすいからである。
しかし何も作らないのはもったいない。
しかしまだ減反政策の締め付けがあり、およそ半分くらいの田は休まなくてはならない。
地球規模でいえば食糧の足らない国はいくらでもある。
なのに田を作らせないとは。
地球規模の矛盾である。
田を畑にして野菜などを作る転作が奨励されているが、作ったとしてもそれに見合う金銭が得られるかというとなかなか難しい。
それに、失敗すれば元も子もないし。
なので何も作らない。
しかし作ってみたい気持ちもあることはある。
半ば遊び半分だが。

421 無限の悪

今日もいろいろ。
床屋、米つき、休耕田の田掻き、田んぼ見回り、苗の水やり、畑の耕起と畝立て、電牧線の下草借り、電牧線張り、夜は会議。
色々あってもなくても人生は進む。
あった方がよいのか、ない方がよいのか。
というよりあることが当たり前。
良いか悪いかというよりも良くも悪くも物事は起こり続くのだ。
それはともかく、この頃驚くべきは「残業代はゼロ」でよしという産業競争力会議の提案。
遂にここまで来たか。
どこまでも労働者を痛めつけることを考えるものだ。
労働者の権利拡大が歴史の流れだった。
全くその流れに逆行するものだ。
新自由主義の流れが始まって以来、逆行の流れが始まったと言える。
1%が99%を食いつぶす。
逆行の流れを止め、権利挽回と拡大の方向に行かなければならない。
が、99%はふやけている。
というか、ふやけさせられている。
残業代ゼロは「死ね」といわれているのに等しい。
暴動が起きないのはがおかしいほどだ。
どうするのこの世の中。
悪いことばかりじゃないか。

420 生態系

今日もいろいろ。
草刈り、田起こし、電牧柵直し、電牧柵関係資材注文、猪鹿無縁柵相談。
猪鹿無縁柵というのは里山近くに張る猪や鹿の防護柵のことで、何百mも張りめぐらすもの。
国や県で補助金を出すのでそれのための申請の相談であった。
こういうのは申請してから実際に取り付けができるまでに1年くらいは時間がかかるものであるが、今回は非常に早い。
申請してから資材が届くまでに、聞いたところ2,3ヶ月である。
それだけ猪や鹿の被害に行政が本腰を入れてくれるということである。
今年植えた苗に対して早いうちにその被害から守ってくれるということである。
昨年は田植えをしたばかりの田んぼに鹿が踏み込み中には苗の先端をかじっていく被害もあった。
これまでに対策はいろいろしてきたが、いたちごっこであった。
鹿も学習してこちらのとった防護策を破ってくるのだった。
今回の猪鹿無縁柵は2mの高さのステンレス線入りの網を張りめぐらすというもの。
2mという高さが有効かどうか。
今のところ昨年張った一部の例を見ると有効みたいである。
ので、今年は大幅に距離を伸ばして1500mぐらい張るつもりである。
主に鹿の被害を防ぐためであるが、鹿も出なければこんな大金を使わなくても良いのにと思うのだが仕方がない。
人間の生活を守るため。
ちなみにかかるお金は1m当たり約1000円。
1500mだと150万円だ。
近くの別の団体では昨年500万かかったということである。
このところ鹿も里山や里に出てきて栄養状態がよくなったのか異常に繁殖しているようである。
それに連れて山の生態系も変わってきている。
熊、狐、狸などの数をあわせた数より鹿の数の方が多いのではないか。
今や森の王様でなかろうか。

419 凡庸

第2次大戦以後の虐殺の歴史は、われわれの目に見える具体的な例としてあげるといくつもある。
アウシュビッツ、カンボジア、ルワンダ、アフガン、イラク、イランなどがあげられる。
それ以前にも勿論あった。
ルワンダのフツ族によるツチ族の虐殺については、なたをふるう悲惨な光景を見た。
しかしインドネシアの殺戮はおおやけに現れることはなかったが、ここに来て分かってきたみたいである。
「アクト・オブ・キリング」の監督は、当時殺人にかかわった人々へのインタビューで映画を作ろうとした。
インタビューに参加した人たちはみな罪の意識もなくむしろ自慢気にまた誇らしげにその経験を語ったという。
権力は「あれは正しいことだった。」という。
それで罪にも問われない。
いわゆる共産党狩りである。
中にはその殺戮の方法を実演?して見せてくれたりする人もいた。
今は家族もあり、よきおじいちゃんとして暮らしている。
アウシュビッツ裁判のアイヒマンを思い出した。
ハンナ・アーレントの言う悪の凡庸をまるで地で行く。
普通の人が何の罪の意識もなく殺人をおかしてしまうということ。
監督はその人たちに映画の中でインタビューした映像を見させる。
すると彼は涙を見せる。
政府の用意した言い訳を嘘だと感じるようになったのだ。
よき隣人でもあった人をためらいもなく殺したことへの罪の意識の芽生えである。
政府は殺人者達に大量のアルコールを与えた。
酩酊状態で人を殺させたのだ。
そうしなければ殺人はできなかったのだ。
インドネシア社会ではまだこの恐怖は続いている。
この問題に触れることさえできない。
監督は再びインドネシアにいけないと言う。
行ったら無事に帰れないかも知れないから。
カンボジアのポルポト政権の虐殺も不気味だったが、インドネシアも不気味である。
いずれにしても殺人が正義であり、正当化されることなどはあってはならない。
しかし現実はまだまだ厳しい。
おぼっちゃ魔達のやっていることは殺人の正当化への道なのだろう。
多分自分では気づいていないだろうが、罪は重い。

418 こどもの日

新聞コラムは子どもに不満と憎悪の世の中を作ってはいけない云々という。
また社説では福島の子どもの心の軌跡を書で追ったら、失ったもの→不安→希望・決意→ほしいもの・やりたいこととなったという。
やはり未来ある子どもには希望を残したい。
失望や・絶望を作り出そうとしている一部の国家主義者にこそ絶望を渡したいものだ。
子どもの数の割合が県別に出ていた。
沖縄が高くて東京は最後から2番。秋田は最後。
我が県は6番目の高さ。
これをどう読むか。
若い女性が田舎ほど少なく都市集中の傾向があるとクローズアップでやっていた。
新聞からもう一つ。
昨年、畜産をやっている女性がある表彰式で、首相とあいさつかねて話をした。
TPPに関して、ブドウとワインづくりの女性に対しては「ブドウ?大丈夫ですよ。」
「キミは?」と聞くので「牛を飼っています。」というと、「畜産ですか?駄目ですね。」と明快に言い放ったという。
クマやろうは「あっはっは」と笑って去ったという。
明らかに結論が出ているとばかりだったという。
さてBTW、昨日書いたことであるが、想像だにしたくない戦慄すべきこと。
1965年9月30日にインドネシアで起こったことである。
詳しくはその前後に起こったことであるが、その日が一番決定的でその後がまた怖いのである。
詳しくは倉沢愛子「9・30世界を震撼させた日-インドネシア政変の真相と波紋」によるが、結論的に言うと虐殺の始まった日である。
この虐殺の仕方がたまらなく戦慄的で想像すると反吐が出るほどである。
これを後からドキュメンタリーにして映画を作った人がいる。
ジョシュア・オッペンハイマー「アクト・オブ・キリング」。
ドキュメンタリーといってもリアルタイムの虐殺シーンを撮るのでなく、普通の人が殺人をしたことを聞き取るということを映像にしたものである。
この聞き取った人の発言が生々しく、反吐が出るのだ。
も少し詳しく明日に。

417 心の耳

代掻きは終わった。
何時間もトラクターの上にいると、だだだだという音が耳から離れない。
しかしあまりに単調なため田んぼをぐるぐる回るうちにエンジン音が大きくても眠たくなる。
居眠り運転に近い。
しかし田んぼとはいえ居眠りは危険なので眠くなったときは景色を見たり空を見たりきょろきょろして紛らす。
蛙が冬眠から覚め泥の中から飛び出す。
早い奴はそこここに卵を産んでいる。
けるるんくっく、だなあ。
夜も鳴き声がうるさいほど鳴くようになる。
トラクターの音と同じで、気にしなければ聞こえていても聞こえない。
官邸前デモも100回を越したとか。
その声は聞こえていても聞こえないのだろうか。
聞こえているはずである。
聞こえないふりか、聞こえていても心にまで届かないのだろう。
原発に真剣に向き合えないから。
それよりも心は改憲で一杯。
おじいちゃんが集団的自衛権はこの憲法では認められないと言っていたことは無視するようである。
いつもよりも早く「世界」が届いた。
驚くべきことが載っていた。
想像するだけでも戦慄する。
それはまた明日。
眠い。
久しぶりに「トゥオネラの白鳥」を聴いた。
しかし肝心なときに寝ていた。

416 憲法記念日

憲法が施行されて67年。
自分と同世代。
ハメリカと戦争したのに、戦後はハメリカと同盟を結ぶ変な国。
そのくせハメリカから押しつけだといって改憲を叫ぶ人々。
戦争を経験してないものが政治家の大半を占めるようになって戦争に突き進むようなお馬鹿な国。
ご意見番がいなくて暴走族党員が幅を利かすお馬鹿党なのだ。
今日のニュースペーパーでは県弁護士会が解釈改憲反対の意見広告。
それと女性団体が秘密保護法廃止の意見広告を出した。
自治体では、憲法集会を拒否するところがちょこちょこ増えてきた。
どんな意見もあって良いのが民主主義だから、拒否するのは民主主義否定だと伊藤真弁護士がいっている。
それこそが憲法違反だと。
復興だ、経済だといってるうちにいつの間にか憲法に移り変わっている。
復興も全然だめ、経済も少しは回復したとしても右肩上がりが続くはずもない。
大企業ばかりが潤い99%は置き去り。
中や北の脅威をあおりコクボーだ改憲だとメディアをたきつけてその99%を抱き込もうとしている。
生活の成り立たない99%をコクボーで成り立たせようとしているのか。
見下げられたものだ。
話が飛んでしまったが、九条は死守せねばばらない。
ノーベル賞もいいが、他力よりも自力である。
憲法記念日は現憲法を施行した記念日であった。
解釈し直したら憲法記念日でなくなる。
そうなったら(ならないようにしたいが)解釈記念日か。

415 春の音楽

春になると思い出す中島美嘉の「朧月夜」。
今日も車の中でFMを聴いていたらかかった。
自分のブログを検索したら去年も朧月夜のことについて書いていた。
中島美嘉、現在31才、妖艶だ。
桜が終わって新緑が美しい時期になった。
まさしく山笑う季節。
目にしみるようだ。
しかし、我が地では見渡すとその黄緑や薄緑の木々の群れは少ない。
黒々とした杉や檜の群れの方が多いのだ。
でもその中に一部黄緑薄緑のところがあって季節の変化を楽しむことができる。
今日は天気もよくて一番日の当たる時間にその山の写真を撮ってきた。
奥地に行けば杉や檜の少ない広葉樹の山があってさぞ美しかろうと思う。
そんなこの時期に山登りをしたいところだが、花粉症の身では死にに行くようなものだから行かない。
花粉症でない友人によるとそれはきれいだそうである。
バッハのゴルドベルグ変奏曲は情景音楽ではないが、第4曲などをこの新緑の山を思い浮かべながら聴くとぴったりだ。
できればハープシコードがいい。

414 染みこむ音楽

今日は、一部の田んぼの代掻きをした。
昨日の雨で川の水がよく流れるようになり、たんぼに水がつきやすくなった。
水を入れながら代掻きをする。
これで田植え前の作業は終わりである。
大事なことは田んぼが均等になりでこぼこしないことである。
でこぼこすると水のつかないとろとつくところができてしまうし、水のつかないところは草が生えやすくなる。
それで最後のほうでは、水を沢山入れて泥をかき回しても水があることにより高低ができにくくなるようにする。
バッハのゴルドベルク変奏曲が何度も聞いているうちに耳になじんできた。
かわいらしいメロディが次々と出てくる。
少し口ずさめるくらいになってきた。
こうなると音楽はおもしろい。
バッハは生涯に沢山の作曲をしたが、まだ埋もれている曲もあるらしい。
そうなるとすごいメロディがあることになるが、つい同じメロディになってしまうとかは無かったのだろうか。
などと変な想像をしてしまう。
作曲の形態も幅広い。
器楽曲、合唱曲、ヴァイオリン、オルガン、ハープシコード、オーボエ、・・・。
代掻きをしているとき、トラクターの音はだだだだだだとうるさくて音楽どころではないが、代掻きを終えてトラクターの音が無くなると、ゴルドベルクのハープシコードの音(ね)は心に染みこむように入ってくるのだった。
検索フォーム
リンク