566 倫理と哲学

退職した年は2008年。
その秋にリーマン・ショックがあった。
銀行に預けた金は一挙に目減りしてしまった。
めべ・リー万・ショックだった。
ネット情報によるとハメリカの平均的な家計の年収はやはりリーマン・ショック後に急落し、その後は横ばい状態。
2002年から見ると36%下がった。
上から5%は逆に14%増えて、上から1%はもっと増えたとある。
つまり金持ち層は増えたが貧困層や中産階級は増えていないということだ。
やはり予想したとおり新自由主義により格差が開くばかりの状態である。
にぽんも同様の事態に決まっている。
それを押し進めたのが、小泉から続く(いやもっと前かも)バカ政治家どものバカ政治のお陰である。
企業が儲かれば給料も上がるというのは幻想にすぎない。
自慢げに語るトリクル・ダウンも幻想である。
経済最優先とは企業の儲かる経済最優先で中産・貧困には回ってこない経済のことである。
大体が企業のおこぼれをいただくなどと言うことはバカにするにも程がある。
今、あちこちで人がかたまり始めている。
のではないか。
スコットランドの選挙。
今度はスペインのカタルーニャ。
そして、香港のデモ、特に若者の。
少し前には台湾の学生の国会占拠。
この間は地球規模の気候変動デモ。
中国では辺境において民族暴動。
一番不気味な「イスラム国」。
これらを恐れていたり力で押さえ込もうとしているのが1%の部分だろう。
1%に組する政治屋を打倒し、政治に倫理と哲学を吹き込まなければならない。
政治は経済ではなく倫理と哲学優先である。
であるならば再稼働も集団的自衛権も無い。
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565 御嶽山

御嶽山が27日に水蒸気爆発して噴火。
犠牲者も出た。
紅葉の季節、週末、天気よし、お昼頃といういろいろな条件が重なって犠牲者が増えたという分析もあるが、いずれにしても偶然のことで自然の災害には人間為すすべもないということが今回もよく分かったと言える。
御嶽山は学生の頃に一度登った。
初めて登山に挑んだ山でもあった。
御岳とも書くがこの山はこの辺の山に登ったら必ずといっていいほど東にみえる山であり、小さい頃からおんたけさんとして親しんできた。
近くの鍾乳洞の出口からもその威容がよく見えて、鍾乳洞に入って出てくるとその景色が見えるところが売りみたいなところもある。
白山と並んでこの辺では人気の山である。
犠牲者が出たことは痛ましいが、教訓としてしっかり刻まなければならないだろう。
今年の山は、クマが出るので危険だということであるが、山の話を書いたら山に行きたくなった。
12月までの内に一つは登ってみたいものである。
と前にも書いたのだったが、クマの出なさそうな山を選んで行きたいものである。

564 敬老

我が地の敬老会に行く。
初めのあいさつをする。
脱線したり忘れたりしないように原稿は作っていった。
うちでも少しだけ練習して臨んだ。
初めは緊張してとちったりしたが、だんだん落ち着いて出来るようになり、原稿も見ずにおしまいまで話すことが出来た。
メインは、新聞の社説からの話と、「花子とアン」からの話。
一つに絞ってもよかったが、やはりどうしても二つ話したくて話したので結局10分弱話してしまった。
社説からは庶民の歴史の中にこそ真実の歴史あり。
よっておのおの各自の歴史を後世(子ども、孫、家族等)に話して聴かせよ。
花子とアンからは、茂木健一郎の話から、前頭葉を活性化して若返りを図る、それには新しいことにチャレンジせよ、という話。
BTW(ところで)今夜のNスペでは、奇しくも老人問題の特集だった。
「老後破産」だったか、年金だけではやっていけない生活の破壊ぶりが進んでいると。
年金を貰っていれば、生活がギリでも生活保護を受けられないと思っている人がいるということで、相談員が回っているところもある。
特に独居世帯は悲惨だ。
病気をしても医者に見せられない。
介護も受けられない。
そして生活保護費の切り下げや、消費税などによる実質生活費の値上げなどがあってますます追いつめられていく老人がいる。
憲法25条の最低限度の生活を受ける権利も紹介しながらの番組であった。
敬老といいながら虐老とも言うべき悲惨な状況があるということだ。
それは社会の奥底でじわりと進行している憂うべき事態だと言える。
戦争や防衛に金をつぎ込んでいる場合ではない。
それは1%の身を守ることにすぎない。
この国の政治は明らかに間違っている。

563 花子とアン

このところ戦争中のことをやり今週は戦後のことだった。
作者(中園みほさん)はなかなか冷めた目で書いていた。
軍事色一色のなかでそれにあまり染まることなく日常を送る主人公花子や、真っ向から戦争反対の宮本夫婦(白蓮と夫隆一)もしっかりと描いていた。
戦後になってこの夫婦のことが新聞記事になる。
夫婦対談という形で記事が載るのだが、ほんの数秒その記事が目に飛び込んでくる。
その見出しのところで、隆一の方には「平和憲法を守る」、蓮子の方には「戦争のない世の中へ」という小見出しがついている。
見落とせば見落とす場面だがそんな中にさりげなくそのような言葉を入れるあたりは、作者の心意気を感ずる。
ビデオに録ってその新聞記事をじっくり見ると、その対談で夫の宮本隆一は、民主主義や平和を大事にし、新しい憲法を守ることが責務である。
日本国民は各国に先んじて戦争を放棄し軍備を廃止したことを誇りとして、これを維持し、諸国民の信頼と支持を獲得していかねばならないというようなことを述べている。
蓮子の方は戦場で我が子を殺された母の悲しみは敵も味方もない、世の中に戦争ほど大きな犠牲はない。
だから戦争はしてはいけないことだというようなことを述べている。
勿論これはフィクションの新聞記事だから本当にそんな記事があったかどうかは分からないが、べた記事にもちゃんと作者の意図が反映されていてすごいと思った。
勿論全文は読みとれないが部分的にでもそのような内容を記事として読めるということはすごい。
実際には1,2秒のカットだからそんな記事の内容までは読みとりは出来ない。
会長や経営委員の問題がある放送局だが中園さんやるじゃないかと拍手を送りたい。

562 森の歌

FBを見ていると時々、有名人の誕生日が出てくる。
この間はコルトレーンの誕生日だった。
コルトレーンはジャズ好きの中でも無茶苦茶好きな人もいればそうでない人もいる。
って当たり前であるが。
かなり当時としては前衛的というか先鋭的というか要するに分からん音楽だったのである。
しかし今となって聞いてみるとそんなでもない。
かなり普通のジャズとして聞けるのだ。
時代と共にその先鋭さが普通になり聞き慣れたものになってきたと言うことである。
「マイ・フェイバリット・シングス」なんて普通。
「ラブ・シュープリーム」も普通。
「ブルー・トレイン」もとっても聴きやすい。
昨日はショスタコービッチの誕生日だった。
ショスタコはあまり聴かなかった。
交響曲も10以上作った大作曲家である。
自分が少しではあるが聴いたのは5番。
それから交響曲ではないが「森の歌」はよかった。
合唱にはまっていた頃、聴いたもの。
ピオニールは木を植える、だったか少年の合唱が覚えやすいメロディで気持ちがよかった。

561 衣裳の太陽

夕べは疲れてブログ更新できなかった。
8時頃ちょっと横になって11時頃に目を覚まして書こうと思ったのだが、目を覚ましたのは3時半頃だった。
ので本日は2本書く予定。
だが出来るかどうか。
何でもないことを書けば出来るだろうという姑息な手段で行こう。
自称西脇フリークの自分としてはいつも何か目新しい事件、事象はないかと目を光らせているのだが、オークションもその一つ。
このころの一番のオークションは昭和3年11月から昭和4年2月にかけて発刊された雑誌「衣裳の太陽」だった。
創刊号から第4号までそれぞれ1冊ずつ別々に出ていた。
勿論その中に西脇の文章も出ている。
かなり欲しかったが悩んでいる内に値段がつり上がった。
やはり好きな人はいるものだ。
それを持っている人も好きな人というか目利きの鋭い人であろう。
全部同じ出品者から出ていた。
この人は西脇オークションでよく見る出品者である。
といっても正式名でなくてIDであるが、よく出るので覚えてしまった。
この「衣裳の太陽」は国会図書館や慶應義塾や某国立大学図書館などにはまだあるかも知れないが、民間ではおそらくどこにもないであろう。
日本のシュールレアリスム雑誌の草分けである。
4冊合わせて30万少しだった。
平均で7,8万になるが高いのは第4号で9万を超していた。
これでは手が出なかった。
あきらめよう。
そしてまた今日見たら今度は「純粋な鶯」が出ていた。
これは昭和9年に出た詩と詩論の本である。
うーむこれも欲しい。
しかしまた高くなっている。
でもまだ若干範囲内ではあるが。
迷うところ。

560 気候問題

気候問題 560
今年の夏は冷夏、多雨で稲の成長はよくなかった。
時たま集中豪雨で土砂崩れ災害がよくあった。
昔は無かった竜巻もこの頃よく現れる。
幸い我が地は局地的豪雨や竜巻災害はなかったが、冷夏、多雨、日照不足の影響は免れなかった。
今日は今年の冬の雪予想がでたが例年並みとか。
しかし、これは冬になってみないと分からない。
異常気象だと言える。
台風16号は珍しくも中国大陸を襲った。
国連で気候に関するサミットが始まった。
温室効果ガス抑制に関する話し合いがもたれるはずである。
先進国のCO2削減のことは京都議定書に基づいて進められているはずであるが、進展はあるのか。
発展途上国やアメリカなどでは野放しになっていないか。
気になるところである。
世界各地ではこのサミットに合わせて大規模なデモが行われている。
ニュー・ヨークでは30万人とも40万人とも言われる史上最大規模のデモが行われた。
「ショック・ドクトリン」を書いたカナダのナオミ・クライン女史は気候に関する新たな著作を出したようである。
以下「デモクラシー・ナウ」からコピペ
23日に予定される国連の気候変動サミットを前に、数々の賞に輝く作家のナオミ・クラインに新著について聞きます。This Changes Everything: Capitalism vs. the Climate(『これがすべてを変える 資本主義と気候の対決』)で、クラインはいまや新自由主義経済システムと地球環境が戦争状態にあると言います。世界の二酸化炭素排出量は過去最高の水準となり、革新的な行動が求められているのです。「二酸化炭素排出の削減に必要な対策を打たずにきたのは、そうした対策を施すことが規制撤廃の資本主義と根本的に相容れないからだ。危機的状況から脱出しようともがいてきた間ずっと、この種の資本主義が社会の支配的なイデオロギーだった」とクラインは書いています。「私たちは立ち往生している。破局を回避できる可能性が最も高い対策は、大多数の人々に利益をもたらす一方、少数特権層の既得権益には重大な脅威となるからだ。この特権層が、私たちの経済も、政治手続きも、大手メディアの大半も牛耳っている」。

559 暗澹

若者(15才から34才まで)の死因の第1位は自殺という。
先進国でダントツ1位。
2位のカナダを大きく引き離している。
10万人当たり20人、カナダは12.2人。
何故日本は多いのか。
薬の所為だというネット情報もあるが、やはり自分が思うに社会の生きづらさだと思う。
就職難があり、仕事についても安定しない。
非正規、派遣、ワーキング・プア、低賃金、結婚も出来ない、晩婚化、保育所足りない問題、成果主義、職場の人間関係などなどストレスはいっぱいある。

558 自殺

昨日の講演で自衛隊員の自殺のことについて触れられた。
イラク派遣の隊員の9230人の内28人の自殺者がいる。
それは全国平均の14倍に当たる。
ひところ年間3万人の自殺者が続いていたが最近は3万人を割り2万8千人くらい。
しかし、統計者の違いによって変死者などを含めると10万人を越えるという評価もある。
それはともかく米軍兵士もアフガンとイラクで死者6800人、帰還兵200万人超のうちPTSD生涯60万人、自殺者は日に平均22人。
年に直せば7800人、すごい数である。
戦場では殺し殺されるという恐怖があるが、戦場から帰っても自殺という死と向き合う可能性が高いと言うことだ。
自殺に至らなくても精神的にダメージを受けやすくなるということだ。
「お国のため」という美辞麗句の裏にはこのような非常に無情な現実も待っているということを知っておく必要がある。
知ったからにはこのようなことにならない道を選ぶことが賢明である。
すなわち戦争に至る道は阻止するということである。
この自衛隊員の死について当局はあまり問題視しない。
自衛隊内にはいじめの現実もあってそれが原因の自殺もある。
戦前の軍隊もそれ以上にいじめの現実はあったが、軍隊という限られた空間での人間関係はかくも異常になりやすいということか。
軍隊=戦争は異常を生む機関である。
幸福とは反対の位置にあるものだ。
九条によって軍隊=戦争を放棄した以上、再び戦争の道に走ろうとするものは九条の敵である。
悲しいかな、にぽんの保守主義はそこに向かっている。

557 不戦決議

今日は九条の会で愛知の僧侶である石川勇吉さんの講演を聞いた。
真宗大谷派の僧侶である石川さんは自らの宗派が行った戦時下における戦争協力に対し、戦後になって自らの犯した過ちを認め、深く反省懺悔の気持ちを表すための不戦決議を行ったことを述べられた。
「いのち」の大切さ、かけがえのなさを教える宗教者にとって、それを踏みにじってきたのが戦争という行為。
「一殺多生」(いっさつたしょう)という言葉の元、多くの若者を戦場に送った。
一人を殺せば多くのものが生きられるということだ。
それに荷担したという自戒の念を込めて不戦決議がなされたのだ。
勿論、ほんの一部ではあるが非戦や反戦をといた宗教者もいた。
垂井の竹中彰元(たけなかしょうげん)はその一人である。
この決議は1995年に出されている。
1995年という年は戦後50年経っているが、遅いと見るかそれでいいと見るか。
50年という節目で見たとき、そのときの状況が何となく危ないと見たのではないかと思う。
少なからず戦争の足音がすると。
やはりそうだったかもしれない。
戦争は一気にはやって来ない。
知らず知らずのうちにそうなるのだ。
茶色の朝みたいに。
真宗大谷派は、その時々の政治的重大事に意見書を出したり決議を行っている。
日本国憲法「改正」反対決議も出しているし、秘密保護法、集団的自衛権容認の時にも反対決議を出している。
不戦決議というのはむしろ政治家自らが決議するべきものだ。
それに反して、J党は2014年の運動方針の中で靖国参拝に対してどういう気持ちで臨むかということに対して、それまでの「不戦の誓い」や「平和国家」という言葉を削除した。
ヤスクニははさておき「不戦」も「平和」もかなぐり捨てるというまさに反動的な暴挙を行ったのである。
ヤスクニといえば今日の石川さんの話で、中国に行ったとき、ある地名に○○神社とあったのでそこへ行くと、そういう地名ではなく近くの人に尋ねるとあれは「ヤスクニ神社」といったという。
他の場所でも日本の神社があったところはみんな「ヤスクニ神社」と呼んでいるということだった。
上層部では「ヤスクニ」といえばいつも目の敵的にいうのに対して、庶民は「ヤスクニ」という呼び方を平気でいっているという。
このギャップは何か。
また京劇の劇場が昔の大谷派の別院をそのまま使っているということもあるし、小学校の体育館として使っていたということもあるという。
日本の戦時に残した遺産を破壊せずにそのまま利用しているとことだ。
今日は宗教者の立場から、集団的自衛権容認の閣議決定の撤回を求めるという宗教者の思いを、戦争責任を明らかにすることの大切さを自らの宗派の行動を通して語ってもらった。
感想らしい感想になっていないし、中途半端だがこの辺で。

556 憲法違反

稲刈りをした。
昨年より6日遅れている。
夏の冷温と日照不足でしっかり育たなかったことが原因。
収穫量も案の定少なかった。
まだもみすりをしていないのでどれだけ少ないかは分からないが籾の袋数を見ても少ないことが分かった。
今年はどこも同じような出来なので米の収穫量は全国的か全県的に少なくなる予想が立つ。
ということは、米の値段は例年よりも高くなるということだ。
この先TPPがどうなるかが大問題だが、関税の聖域を嘘こいて崩してしまったJ党が米についても公約違反を犯す恐れがある。
外国産米が入ってくればいくら冷害で収量が少なくなろうが米の値段はずっと下がるだろう。
米農家はそうなるとやっていけなくなる。
TPPは何より秘密主義でやっているから、もうすでに公約違反の関税撤廃の方向に進んでいるかも知れない。
TPPは憲法違反だと訴訟に持ち込もうとしている人たちがいる。
2000円出せば原告団に加わることが出来るそうだから考えてみてもいい。
TPPは何も米だけの問題ではないから大勢の人が加わることが力を生む。
広範な人々が加わることを期待したい。

555 有り難い

耳がかゆいので綿棒でほじくっていたらばい菌が入ったらしく、聞こえが悪くなった。
耳元で指をぱちんとはじいたりこすり合わせたりしてもその音がかすかにしか聞こえないのだ。
片方はよく聞こえるのだがもう片方が聞こえないのだ。
ものを食べるときも口の中の音がもぐもぐと耳の奥に響いて気持ち悪い。
歯磨きすると歯ブラシの音ががしがしと耳の奥に響く。
それで急遽耳鼻科に行った。
耳の中の耳くそがやはりあってそれを取ったら少しすっきりした。
聴力検査したらだいたい回復したみたいだった。
もぐもぐ音やがしがし音もしなくなった。
やれやれである。
一時はこれでもう片方の耳は聞こえなくなっていくのかと暗い気持ちになった。
しかしながらさらに年を取っていくと本当に聞こえなくなっていくのではないかと思う。
親がそうであるからなおさらそう思う。
親は両方とも補聴器を使った。
目も悪くなっていくし耳も悪くなっていくし、どちらも悪くなっていくことは辛いことだ。
せめて耳だけでもあまり悪くならないで欲しい。
やはり音楽を聴きたいからだ。
耳がかゆくなっても我慢してつつかないようにしよう。
と心に誓った一日だった。
しかしベートーベンはえらい。
補聴器のない時代、さぞ辛い思いをしたに違いない。
彼は音を耳でなくて心で聞いたのだろうが、さすが天才である。
日頃聞こえて当たり前に思って耳が聞こえないことのつらさを考えたりもしなかったが、いざなってみるとその当たり前のことがとてもありがたいことだとしみじみ思った次第である。
当たり前や普通のことが続いていることのありがたさを時々思い出す必要がある。

554 つながり

昨日の続きを書こうと思うがはや記憶がなくなりかけている。
というか無くなってしまったに近い。
それほど記憶力が無くなった。
そのためにこのブログを書いているのだが、まったく危ういものだ。
つながりということで討議をしていたが、2つほど印象に残ったことを書こう。
一つは、近頃の子どもに対して大人が声をかけづらくなったということがでた。
悪いことをしていても注意したりしかることが出来ないという。
それは前からいわれていたが、今でもやはりそうらしい。
あいさつもなかなか出来ないし、そもそも知らない相手に声をかけることもこの頃じゃ変なおじさんに見られてできない。
それに比べると我が地の様子はまだ古き良き時代の田舎が残っていて誰にでも声をかけられる。
とそれはさておき、ならば子どもに対して臆することなく声をかけられるようにするにはどうするかということだが。
大人が結びつくしかないだろう。
学校だったらPTAの親の方が積極的に仲良くなる努力をするということ。
モンスターもいるがそういう人も含めてつながり努力をするということだ。
授業参観はでているが学級懇談会になると少なくなってしまう状態を抜け出すことだ。
それには、学級内か学年内で親のサークル活動をしたり、バーベキュー、飲み会、スポーツ大会、親子海水浴、スキーなど得意な人が前にでて一緒に行動することによりつながりが出来てくるのではないか。
というようなことがでた。
もう一つは上のものが下のものに伝える活動をしていくことによりつながりを作れるのではないかということがでた。
我が公民館でもそういう活動を進めようと考えていたときだったので我が意を得たりではないが同感の意を深くした。
例えば、昔の生活の様子、自然や歴史の話、戦争の時の話、昔の遊びのことなど。
特に戦争の話は実体験に基づいて話が出来る人は時間が経つに連れて少なくなっていく。
もう限界に近いのじゃないか。
実際に自分はそういう人を発掘中であるが90才前後の人で話が出来る人は10人もいないのではないか。
5人もいたらいい方でそれ以下になるのじゃないかと思う我が田舎である。
人口が人口だからそんな数なのだが、とにかく一人当たると自分は出来ないがあの人ならと教えてくださるのでそれに期待したい。
昔の遊びだったら話の出来る人は結構いそうな気がするが、まずは「戦争」を語れる人の発掘である。

553 討議

社会教育・公民館等の研修会で某市へ行ってきた。
子どもを核としてつながりをどうしていくか、と言うようなテーマでグループ討議をした。
いわゆるKJ法で紙切れに思い思いに考えを書いて同じようなものを類別してまとめていくというようなことをした。
方法はそれとして討議なのに勝手に一人でしゃべりまくる人がいるのには閉口した。
司会役がそれをするので他の人も負けじとしゃべったりしてなかなか発言が回ってこない。
それで発言は公平にしようと苦言を言って、討議の進むべき方向を確認した。
それでようやく正常に?もどった。
今回は無かったが、討議中に関係のないことをしゃべり出す人もいたりして、時間のロスを招くこともある。
討議には討議の柱があって、進むべき方向と出口がある。
そこを逸脱すると討議にならないし何をしたのか分からないものになる。
無意味なことをしてはならないのだ。
それにはやはり中心となる人物(司会・進行役・議長など)が、公平に意見を聞きながら出口を目指して討議を進めていかなければならない。
中心となる人物がしゃべりすぎてはいけない。
公平に意見を求め自分は簡潔にまとめたり言い直したりして議論していることが分かりやすくなるようにするのがいい。
わいわいがやがやと自分のしゃべりたいことだけをしゃべっていては討議にならない。
我田引水的に自分の土俵に無理矢理引っぱりこもうとすることにも閉口する。
やはりそういうときは司会なりが道筋を修正して本来の討議するべきことに戻さなければならない。
自分のグループは幸いにも逸脱することなく進んで行けたが、全員が進むべき方向と出口をしっかり確認できたからだと思う。
今日の内容についても書きたいが今日はここまで。

552 ふふふ

井上ひさし氏が「ふふふ」という本を書いている。
思わずふふふとなる出来事を書いたエッセイ集である。
「ふふふふ」と言う続編もある。
どちらも読んだのだが、はや内容の方は忘れている。
ちょっといい話や皮肉を込めた話や笑いの中に蘊蓄を込めたような本だった。
ちょっといい話のちょっといい出来事はなかなかあるものではないが、このところある仲間からのメールで子どもたちのいい話を聞いている。
仲間の一人があるラジオ局でパーソナリティとなって毎週DJをかねて出演している。
彼は自分の出会った子どもたちのいい話をしているのだが、それをまたある仲間がユーチューブを通して聞けるようにしてくれているのだ。
いわば子どもたちのふふふである。
笑うというよりも泣かせる話である。
このところ涙もろくなった自分は聞いていて思わず胸きゅんで涙が出る。
子どもたちばかりでなく子どもを取り巻く大人や家族のこともある。
私が聞いて感動した話を一つだけ紹介する。
「一つの花」という話が国語の教科書にある。
その話の本読みの練習をある女の子が家でしていた。
そしたら隣の部屋から泣くような声がする。
それは女の子の曾おばあさんであった。
「一つの花」は戦争に行くお父さんをお母さんと小さな女の子が見送る話である。
その見送る場面のところを聞いていて泣かれたそうなのである。
その曾おばあさんも自分の息子を見送ったそうであるがやがて戦死されて帰って来る。
曾おばあさんは自分の経験と重ね合わせて涙なしには聞けなかったのであろう。
そこでその読んでいた女の子とそのお母さんは、曾おばあさんから戦争の時の話をその場で聞くことにしたそうである。
そしてお母さんは、夜、遅かったが、その晩のことがどうしても誰かに伝えたくて担任である先生に電話してきたという。
と言うような話。
このラジオ局は美濃加茂市のFMらら。
毎週火曜日朝7:20から
番組名「つよしくんの子どもばんざい」

551 青木十良

青木十良(あおきじゅうろう)さんが亡くなった。
99才。
日本のチェリスト。
90歳を過ぎてバッハのチェロ組曲の録音に取り組む。
その様子が映画になって、昨年だったかに名古屋まで見に行ってきた。
とことんこだわる人で録音場所なども色々試しては最良のところで行っていた。
バッハは6番までこの曲を書いているのだが、青木氏は6番から録音を始めた。
だから1番が最後になるのだが、残念ながら1番まで到達しなかった。
6番、5番、4番しかない。
6番か5番を友人の家で聴かせて貰ったことがある。
重厚な響きであったが、曲のすべてを味わっていないのでいいのか悪いのか感想の述べようがない。
しかし、90歳を過ぎて尚、音楽の心髄に迫ろうという心意気には敬意を表したい。
バッハのチェロ組曲は、その友人の家で何人かの演奏家の録音を持ち寄って聴き比べをしたことがあった。
その中に青木氏のもあったのだが、有名なチェリストといえば、
パブロ・カザルス、ロストロポービッチ、シュタルケル、ヨーヨーマ、ミシャ・マイスキー、エンリコ・マイナルディなどなど。
カザルスは超有名なのでいいかなと思って聴いてみると案外たるかったりする。
でもそれは個人の感想であって、人それぞれであるから、カザルスが最高だと思う人もいるだろう。
それはともかく、ずーんと響くチェロの音色は聴き応えがある。
手ではじく弾き方よりぎこぎこやる方が好きだ。
1番の1楽章は好きな方なのだが、まさにぎこぎこが聴いていて気持ちいい。
6番の1楽章も好きである。
今夜は6番を聴きながら寝ることにする。
演奏者はカザルス。

550 運動会

快晴の元、まさに運動会日よりの運動会に行く。
主催者の立場だが、つつがなく終わってホッとする。
行事があると地元の人口が増える。
わけは出ていっている家族が戻ってきて参加するからである。
息子夫婦だったり、兄弟夫婦だったり、家を離れた子どもだったり、地元をふるさととする人々が来るのである。
地元は中学校が閉校になり小学生も全校で10人ほど。
それで小学校の運動会と地域の大人の運動会と合体して合同運動会にしたのである。
人口減少はこんなところにも影響を及ぼす。
中学生や高校生はボランティアとして活躍してくれた。
すこしでも地元ふるさとの記憶を持って貰いたいためである。
よく働いてくれて嬉しかった。
郡上踊りは恒例だがお囃子は小学生と中学生がやってくれた。
踊りは会場からほとんどの人が出てくれて大きな輪が出来た。
こういう場合なかなか人が集まらないという現象をよく見てきたが、すぐにこんな大きな輪が出来たことに驚くと共に感激した。
午前中はスムーズに進んで11時に終わってしまった。
出場者が多くはないので競争するにもあっという間に終わってしまうのである。
集まる時間の方が長くかかり、いざ本番になるとすぐに終わるのである。
これも人口減少のせいかもしれない。
人が少ない分、和気藹々と進むのであるが、もう少し手に汗を握るくらい競争してもいいような気もする。
汗を握る前に終わってしまうのでドキドキわくわく感が沸いてこないのだ。
運動会が終わるとそれぞれ地区に帰って宴会である。
今日の結果を肴に飲むのだが、こちらも酒が入るからわいわいがやがやと楽しく終わる。
やれやれどちらも疲れた。

549 サンプル

Joe Sample passed on 12th September.
とあった。
あのジョー・サンプルが亡くなったのだ。
クルーセダーズのピアニストだった。
クルーセーダーズはあまり聞かなかったが、「ナイト・ミュージック」というアメリカのテレビ番組でサンプルが出ていたのを思い出した。
show 111でやったパティ・オースティンが歌った「ホエン・ザ・ワールド・ターンズ・ブルー」と言う曲。
早速DVDを取り出して聴いてみる。
パティは情感たっぷりに歌い込む。
その曲でサンプルは歌伴としてピアノを弾いている。
他には、デヴィッド・サンボーンのサックス。
マーカス・ミラーのベース。
アール・クルーのギター。
オマー・ハキムのドラムス。
ハイラム・ブロックのパーカッション。(ほんとは彼はギタリスト)
そうそうたるメンバーである。
途中のサンボーンのソロがいい。
サンプルもソロをとるがこれが非常に引き込まれるようなピアノで明るさの中にも哀愁の響きがありまさにブルーな感じ。
「ナイト・ミュージック」はアメリカでやった1980年代の音楽番組であるが、いつも有名ジャズ・プレイヤーが出ているので見たのだった。
歌もので素晴らしいものがいくつかあったが。パティの歌はその中でも秀逸のものであった。

548 山

郵便局へ葉書を買いに行ったら、来年の年賀葉書の予約の紙を渡された。
もう年賀葉書かよ。
まだ9月だぜ。
と思った。
それはさておき、このところ山に行けてない。
2月に登ったきりだ。
原因は相棒二人の都合である。
家庭の事情と体調不良である。
しかし一人は少し改善したので12月までには1度行きたいと思う。
とそんなことを思っているうちに、知り合いの女性に先を越された。
というか彼女がいうには1年半前から始めたというが、クラブに入っているようで、月に2,3回登っているという。
この間は富士登山した写真を送ってきたし、最近は養老の山だった。
若いし女性といっても体力はあるから高い山でもへっちゃらなのだろう。
羨ましい。
もう若くはなれないから体力も負けるが、月に2,3回登るという意欲には負ける。
こちらはせめて月1だが、この分じゃ2、3ヶ月に1回ということになりそうである。
体力と暇があれば登れるが、この頃は暇もあまり無く時間がとれないのも災いの元だ。
今のところ山の解消法は、FBで全国の山好きが送ってくる山の写真を眺めることである。
それとBSでやる「にっぽん百名山」シリーズを見ること。
今日は金とくで穂高の縦走をしていたので録画しながら少し見た。
でもやっぱり音楽と一緒でライブがいい。
生の山?に登ることである。

547 Ambarvalia

Ambarvaliaと書いてアムバルワリアと読む。
西脇順三郎の昭和8年に出た日本語の第1詩集である。
戦後にもこれを改定した「あむばるわりあ」という詩集がでた。
前にも書いたがこの第1詩集は300部限定版で、それを手に入れたことを書いた。
ネットのオークションをみたら、驚くことにこれが出ていた。
おそらくこの詩集の初出オークションであろう。
なんと始まりが8000円。
自分が買ったときの何分の1かの安さ。
今日時点では少し高くなったが、まだまだそんな値打ちではない。
一冊持っているものとしては、また買うわけには行かないが、金さえあれば手に入れたいところである。
なので安く落とされては面白くないのである。
オークションの下の方をみていたら、なんとなんと「旅人かへらず」の初版も出ているではないか。
これは戦後に出た第2詩集。
これもあるので買うわけには行かないが、第1と第2の詩集がいっぺんに出てきたことに驚く。
西脇ファンとしては、出来るならどちらも持っていたいところ。
やはり全国には好きな人もいると見えてオークションで落とそうとする人がいる。
しかし西脇については今や知る人ぞ知るような存在になってしまっているのではないか。
そう思うと寂しい気がする。
慶応大学では西脇のことを講義する人もいるようであるが、学生等は知らないのが多いらしい。
しかし日本の詩壇ではおそらく一人屹立するほどの人であることは間違いない。
まあ亡くなった今となってはレジェンドである。

546 東京ジャズ

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退職してから4年ほど毎年「東京ジャズ」に行っていた。
9月の初めの土日をはさんでの3日間、夜昼合わせて5ステージある。
見たくないときはチケットを買わず東京見物していた。
クラシックのコンサートに行ったり友達と山に登ったり関東組のミニ同窓会をやったり友達のところに行ったり。
この2年は行ってなくて今年も行かなかった。
この2年ほどは出演者があまり好みに合わなかったからだが、今年もそうだろうと思って確認しないでいたら、今年は結構好みに合う大御所たちが来ていた。
ハービー・ハンコック、クリスチャン・マクブライド、小曽根真、ケニー・バロン、ミシェル・カミロ、マイク・スターン、ランディ・ブレッカー、ロン・カーター、チャカ・カーン、上原ひろみ、高中正義、坂田明などなど。
これまでの2年間の来演者は何だったんだろうと思うくらい豪華メンバーである。
知っていれば行ったのにと後悔する。
一つサプライズは、いつも東京国際フォーラムの外でやる無料地上演奏というのがサービス?みたいのでやるのだが、その地上ライブにおいて我が知り合いが上の写真のマイク・スターン・とランディ・ブレッカーと共演したのである。
共演と言っても他にもメンバーはたくさんいるようなので3人で演奏しているのでもなさそうであるが。
自慢話みたいで恐縮だが、その知り合いというのは我が次男の嫁である。
彼女は高校の時からブラスをやっていてトロンボーンを吹くのだ。
どういう経緯で彼女がその場所に立ったのかは今のところ不明であるが、一緒に演奏しているところを写真にとって送ってきたので分かったのである。
いつもNHKのBSで東京ジャズを流すので録画するのだが、ひょっとして彼女が映っているかも知れない。
いずれにしても内容的には今年の東京ジャズは内容的には濃いものがあるように思う。

545 エルヴィン・ジョーンズ

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FBでいろいろな誕生日案内が来る。
今日はエルヴィン・ジョーンズ。
ジョーンズ3兄弟のひとり。
ジャズドラマーである。
1989年の夏に長崎に行ったとき、彼はそこで店を開いていたので尋ねていったのだった。
客はたった4人ほど。
マイルスやコルトレーンのバンドのメンバーだった彼は超有名ドラマーであったが、たった4人ほどの客のために演奏をしてくれた。
ピアノトリオだった。
そのときのピアノが誰だったか名前を覚えておくべきだったが失念した。
そのとき聞いた「花嫁人形」はピアノが素晴らしかった。
あの演奏が素晴らしかったのでエルヴインのCDでその曲の入っているのを聞いてみたがピアニストが違うのであの時ほどのかっこよさはなかった。
他に彼がよくやる「Keiko's Birthday March」もよかった。
これはCDで聞いても同じように聞こえる。
けいこさんとは彼の奥さんのことで、長崎のその店で彼女が酒とかつまみを出す役目をしていた。
演奏終了後、片言の英語で彼と話をしたのだった。
彼がいつもしている鯉の首飾りに触らして貰った。
レコードなどのジャケットの写真には、その首飾りをしている写真がある。。
最後にミーハー的に着ていたシャツの背中にサインを入れて貰ったのだった。
残念ながらエルヴィンは2004年に亡くなっている。
今夜は「きんらん どんす の おびしめながら はなよめごりょうは
なぜなくのだろ」を聞くか。
哀しい歌だな。

544 ドヴォルザーク

9月8日はドヴォルザークの誕生日だそうである。
FBに入っていると誰それの誕生日というニュースがよくとんでくる。
今日はおなじみドヴォルザークだったのであるが、筆者はそんなに彼の曲を知っているわけではない。
有名なのは9番の「新世界から」であるが、学生時代に8番もよく聴いていた。
8番の方がなんか癖があってスラブ的であり、民族的なにおいがする曲である。
他にはドヴォコンと言われるチェロ協奏曲が有名であり3番目ぐらいによく聞く曲である。
後、穴場?は弦楽四重奏曲「アメリカ」である。
「新世界から」の2楽章はおなじみ「家路」であるが、お帰りのチャイムに使われていてどこからかクレームが付いて今は流れない。
今はどういう曲だか知らないのが流れている。
ということで、今夜は8番を聞きながら寝ることにしよう

543 新聞から

新聞で同志社の浜女史が吠えている。
取り戻し病がはやっていると。
全くそうだ。
自分のテリトリーを拡大するという取り戻し病だ。
強い国、強い経済を目指す取り戻し病。
自分のテリトリーだけが強くなればいいということだ。
1パーセントが富裕になればトリクルダウンして99もよくなると思っているらしいが、誰だったかこれも新聞からだがそんなことは起こらないといっている。
EUなどでは盛んに格差問題をそれこそ問題にしているそうだが、ベアの国ではそんなことは問題にされていないとこれも新聞から。
ベアノミクスに踊らされているだけであると。
そんなミクスは大体においてちょっともよくなっておらんとこれも新聞から。
・・・と新聞で解説されているのだが、これがなかなか一般に広まっていかない。
また性奴隷の朝日問題でこれ見よがしにバッシングが続くが池上氏とのトラブルも重なって増幅している感じ。
木を見て森を見ないと逆に批判もされているのだが当分この問題は尾を引くだろう。
いずれにしても真面目に問題を考えると言うよりも、スキャンダル的興味しか大衆は興味を示さないということか。
これを打破するにはどうするか。
ものすごくでかい権威を逆に利用するか、とことん落ちるまで情勢を見守るかである。
後者は耐え難い感じがするからまあ俎上には乗らないだろうが、痛い目にあってみないとわからんやつにはわからんということである。
大局的に反撃の下地を持ちつつ、個々のことについていちいち反撃の手を緩めないで行くことである。
EUでは拡大する格差に対して不満のはけ口が極右勢力に流れているらしいが、もうどうにもならないというせっぱ詰まった気持ちが過激な行動に行くときそこにあったのが極右だったと言うことだろう。
この過激さを正当な道?に持っていくことは出来るのか。
正当かどうかはおいといて、台湾の国会占拠みたいなことはどうだろう。
それを暴動とよぶなら暴動でいいが、デモの行く着く先がそういうのにならないか。
60年安保、70年安保の時の大衆行動もそれに近かったかも知れないが、もっと前の失敗に終わったものの21ゼネストのようなことが思い浮かぶ。
組織率が低い組合の力では何ともならないが、アフリカで起こったFBなどネットを使った一時的にせよ大衆行動なら出来るかも知れない。
と思ったりもする。
もうそんな時期に来ているのではないか。
と思うのである。

542 共生

午前、中学生の運動会見学。
午後、お寺参り。
無量寿経。
王を捨て、国を捨て、共に生き合うようにする。
自分のテリトリーを脱し、共生するということである。
あいつの悪いところも俺の悪いところもさらけ出して受け入れることである。
テリトリーに固執し、他人が入れるところがないのが俺達にあるのではないか。
あるなあ。
自己中とエゴの固まり。
最高にあるのがベア一族。
俺のテリトリーしか守らない。
俺のテリトリーの中に入れて従わせようとする。
まさに王を捨てるのでなく、国(テリトリー)を捨てるのでなく、自己中エゴの世界にしか生きようとしない。
やつである。
断定する。
共生という概念はないだろう。
イエスマンばかりの世界づくりに邁進している。

541 ブル・マラ

FBで公開されたので分かったのだが、昨日はブルックナーの誕生日。
今日かと思ったら9月4日とある。
生きていたら190才。
マーラーは生きていたら154才。
マーラーの方が36才若いことになる。
しかしブルックナーが亡くなる1896年まで36年間は彼らは同時代を生きたことになる。
なんとマーラーが17歳の時にブルックナーより大学にて和声学の講義を受けるとある。
そのときに会ってから約19年間の同時代を生きたということになる。
ブルックナーは生涯独身。
マーラーは42才で19才年下の女性と結婚と対称的。
ブルックナーに習ったマーラーだが、彼ら二人の音楽は印象が全く違う。
どちらも壮大なところは同じだが、音色が違うのだ。
ということで今夜もまたブルックナーを聞いて寝る。
7番しかないが、8番をフルトヴェングラーで聴いてみたい。
には買うしかないか。

540 異常

異常政府に異常気象。
野菜が高いらしい。
米の生育も遅れているし、収穫量も今年は例年に比べかなり落ちるだろう。
低温の夏と日照不足。
それに雨が多かった。
へくそむしは夏頃から出ている。
原因は何だ。
That's a Man.
人間である。
この異常気象は原因は人間であると言うことだ。
異常政府の原因は何だ。
That's an election system.
つまり選挙制度すなわち小選挙区制である。
民意を反映しない選挙制度だということである。
その上にあぐらを掻いているのが今の異常政府だということである。
異常政府をただすには異常選挙制度をただすことである。
いくら議員の数を減らしても選挙制度が変わらなくては異常政府はただせない。

539 極右

ベア筆頭として極右ばかり集めて仕上げに入るつもりかよ。
女性もそんなんばかり。
男性もそんなんばかり。
語るに落ちるとはこのことだ。
よくも恥ずかし気もなく選んだものだ。
ていうかもう選ぼうにも誰を選んでも同じということだ。
みんな極右ばかりということだ。
ブレーキ役なんて葬られてしまったということだ。
野党も大政翼賛的なやつが多いから、もう戦前になるしかないか。
ここに来てハメリカの兵隊の自殺やじえーたいの隊員の自殺やいじめ問題がよく取り上げられる。
軍隊は殺人組織である。
一度戦場に行ったら殺人の現場に出くわすのは必定。
普通の人間性を持っているものならトラウマになるのは必定。
戦場に行って命の尊さを身をもって知る。
それでは遅すぎる。
極右によってこれが現実化する。
極右をとるか命を取るか。
現実は極右に傾いている。

538 ブルックナー

クラシックの曲を聴いていて最終的に行き着く大作曲家というとマーラーだろう。
そしてマーラーと並んでブルックナーという作曲家もそうである。
あとショスタコービッチなどもいるが、大体おおかたはマーラー、ブルックナーの名前が出てくるのではないかと思う。
大作曲家というと交響曲をいくつか作曲した人ということになるのだが、マーラーもブルックナーもやはり10曲ほどの交響曲を残している。
今日はマーラーはさしおいてブルックナー。
ブルックナーの交響曲でもっともポピュラーで壮大な感じのものは8番である。
あの重厚な響きは何とも威厳があって引き込まれる。
1楽章のキャッチーなメロディは天から降ってくるような重々しさがある。
8番はさておき自分としては7番がもっとも好きである。
これは学生時代に楽譜まで買って鑑賞した。
もちろん楽譜が音楽家のように読めるわけではない。
ただの格好づけである。
1楽章の好きなメロディのところを楽譜でたどってみたかったのだ。
この頃はそんなことはしないがそこの好きなところに来ると昔のことを思い出す。
2楽章のアダジオは天から下りてくるというより天に昇っていくような感じ。
ゆったりとした楽章は眠くなるし、テンポの速い曲のほうが楽しくていいのだが、この楽章のゆったりさは速い曲と同等の値打ちがある。
2楽章を聴いて寝ていると気持ちが良くてすぐに寝られる。
ブルックナーは他にも4番とか9番とか好まれる曲がある。
生で聴いたことがあるのは8番で東京上野の文化会館。
今度は7番を聴いてみたい。

537 聴く

アイポッドにCDの音楽を入れた。
こんな小さな箱?に何千曲も入ることが不思議である。
現在CDにして180枚くらいは入っているが、まだ半分以上の空きがある。
デジタルの技術はすごいものだ。
友人は自分の持っているCDをすべてハードデスクに入れて、聴くときはタブレットで検索して聴いている。
いちいちCDをCDプレイヤーに入れることもなく画面上で操るのである。
音源もネット上で探してダウンロードして取り入れている。
世間もだんだんとCDでなくネットからダウンロードすることが多くなっているらしい。
曲も1曲から購入できる。
外国からもネットでダウンロードできる。
などなど昔と格段の差がある。
いいのか悪いのか。
昔はレコード。
アナログである。
30センチ盤だとその袋というかレコードが入っている30センチ四方の箱のデザインもレコードを買う際の楽しみであった。
CDになって12センチ四方だとそのデザイン力はかなり落ちて魅力が無くなった。
ネットから曲を買うとなるとそういう楽しみは皆無となる。
昔のレコードを愛するアナログ派はまだ健在であるが、どちらがいいとも悪いとも言えない。
レコードはたまってくると置き場が無くなったりその重量に部屋が耐えられなくなったりした。
CDはその点軽くなったが、ハードデスクに何千曲も入るようになっては、場所はとらないし、重さも無くなってしまう。
アイポッドだと何千曲も入れてポケットに入れて持ち歩ける。
しかしその何千曲をいつ聴くのかというと聴く時間が無いのが現状だろう。
好きなときに好きな曲を聴けたり、すっと聴ける手軽さだけは優れている。
でもほんとはイヤフォンで聴くより、スピーカーで聴いた方が体にはいいし聴き甲斐もある。
と言うことは前に書いたか。
プロフィール

Author:JAZZY
田舎親爺のつれづれ日記。記憶を記録に、記録を記憶に。
Jazz大好き、クラシックも大好き。
JAZZYは邪爺ことよこしまなじじい。
生き馬の目を抜くような世の中、ちょっと立ち止まりしゃがんでみよう。そして斜眼で見える世相を書いてみたい。

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