597 社会的共通資本

夕べ見損なっていたクローズアップ現代の宇沢弘文特集を録画で見た。
つい最近亡くなられた経済学者。
少し前から注目していた人であった。
You Tubeでも彼の講演が聞かれるのであるが、中心的・論は社会的共通資本。
人間のための経済学を考えた人。
机上で考えるのでなく、いつも現場に行く人であった。
特に弱者に寄り添いそういう人を大事にした発言や活動を行った。
シカゴ大学では、新自由主義経済を唱えたフリードマンと対決していた。
フリードマンと対決していたというだけで俺は尊敬する。
1、2冊は宇沢氏の本を読まなければと思う。
また読む本が増えた。
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596 紅葉リベンジ



突然、お出かけで、紅葉を見に福井の山中の苅込池をめざす。
国道から21キロ入った山の中からさらに徒歩で50分。
21キロ入る道がすごかった。
一車線道路で片側はガードレール無しの崖の上みたいなところを延々といく。
ダンプが途中まで数台すれ違いでひやひや。
終点は駐車場があるが満杯。
道にまで車でいっぱいで百台以上。
池までは片道50分コースと80分コースがあるが時間の関係上近道50分にする。
その道は急坂の686段の階段を行くのだった。
ハイキングのつもりだったが、完全に山登りになってしまった。
しかし家に戻る時間が4時と決めてあったので池まで到達することは出来ず途中であきらめて戻ってきた。
何とも煮え切らない道行きとなって非常に悔しかった。
再度のリベンジをいつかやることにした。
しかしあんな山の上に池があるなんてまさに秘境である。
ネットで見ると紅葉は美しい。
数日前にTVでやったらしく、人が大勢なのもきっとそのせいなのだろう。
池の代わりに九頭竜湖の写真を撮ってきた。

595 極める

夕べはすっかり夜の会合に行くのを忘れていた。
これで2回目。
ガッテンを見ていたらけん玉をやっていた。
難しい技、新しい技に挑戦するということが脳によい刺激を与えるのだそうだ。
以前にやっていたことがあるが、新しい技が成功するときの気分は確かに気分がいいし、次の難しいのに挑戦したくなるという循環が出来る。
途中で自然消滅的にやらなくなったがまた始めてみようかと思う。
知り合いに超人がいるのでその影響もあるが、やはり超人は続けていたからよかったのだと思う。
物事は小さなことも突き詰めればすごいことになるものだ。
たかがけん玉されどけん玉である。
どうもブームらしく技もすごい見応えのあるものがあるみたいだ。
まずは飛行機やふりけんからか。
オノマトペを使うという心理作戦?にはびっくりした。
なるほどとも思うがそれを考えつくのが素晴らしい。
お手玉も極めればすごいことになる。
やはりたかが遊びされど遊びである。
楽しいことで脳が活性化出来ればそれに越したことはない。
これで忘れ物がなくなったらたいしたものだがまああてにせず楽しく行くか。

594 風呂でユリイカ

ゆっくり風呂に入っている時間は至福の時間だ。
風呂の中で寝ていることも多い。
寝ているということは意識がないということだが完全にないということもない。
半分無意識なのである。
半分かどうかは計りようもないのだが。
それはともかく、しかし意識があるときはどうなのか。
何か考えている。
ブログに各記事のネタも時々風呂で浮かぶ。
ブログ記事は毎日ネタ探しに困るくらいないのだが、風呂で思いつくと、ピタゴラスじゃないが「ユリイカ!」なのである。
今日はその「ユリイカ」をユリイカしたのだった。
「ユリイカ」は詩の雑誌である。
復刊当初から読んでいたが20年以上読み続けてやめた。
読んでいたというより取っていたといった方がいいかも。
最後の方は本屋さんから届くだけで中身はほんの数ページ読むだけであった。
そしたら連れ合いにカットされてしまった。
他にも「現代詩手帖」も同じく取っていたが、これもカット。
しかし、その間の詩、特に現代詩は読んでいたことになる。
最後の方ではグッと来る、ピンと来る、ぐさっと来る、ハッとするような詩はほとんどなかった。
というか、感性が退潮してしまったのかもしれない。
今の詩の現在はどうなっているのだろう。
と思うが、やはり退潮してしまった感性のじじいには読んだところでグッと来ることはないだろうと思ってしまう。
BTW、新聞に、ジャズピアニストで数学者云々の記事があったので誰かと思って見てみたら、「中島さち子」さんだった。
彼女は、かつて10年以上前だったか「渋さ知らズ」のメンバーだったので覚えていたのだ。
「ピットイン」で見た(聴いた)ことがある。
数学とジャズは似ているところがあるといっているが、そうかしらと思う。

593 30人学級に

1年生の35人学級でいじめがなくならなかったと言って40人に戻そうとする財務。
逆だろうと!と怒である。
35人で駄目ならさらに30人とか20人とかに減らしていくべきであるのだ。
現場に立って見ろと言いたくなる。
まさに命より金の考えである。
金がいるのなら軍事費を削れ。
ヘリコプター一機とか戦闘機一機で十分まかなえるだろう。
そこに頭がいかないのは、金の論理を戦闘機で守って欲しいという思惑だろう。
って分かりにくいか。
つまり、自分の金を取られないようにピストルで守ろうとしているようなものである。
命を取られないようにでなく、金を取られないようにピストルを持つのである。
金が命の輩の考えることである。
多分彼は死んでも金を離さなかった、というやつだろう。
と話が飛んでしまったが、教育で金をケチると国は滅びるぞといいたい。
戦闘機に回すよりも子どもに回せと。
奇しくもマララさんはそのことを言っている。
学んでないぞ財務省。
政治は金持ちの為にあるのでない。
話は変わるが、TPPもアヤシイ雰囲気になってきた。
あの交渉の内容は秘密でやると言うのがそもそもおかしい。
と、また怒になるのでここでひとまず終わり。

592 泣きっ面

今日は関係者総出で水源地のため池の清掃活動。
倒れた材木等が岸に流れ着いて水吐きをじゃまするので取り払う。
今年は水がまだ高く、雨が多かったことを物語る。
清掃中一人の年寄りの方がゴミを山の中に捨てに行こうとしたところ蜂に刺される。
腕や顔に3,4カ所刺されたと言われたが何ともなかったような顔をしている。
自分らだったら大騒ぎだが、どういう免疫力を持っておられるのか全然動じた様子もない。
その後も淡々と仕事をしておられた。
歳を取るとああいう風になるのかしら。
それはともかく今日はまた一つ勉強。
トラクターの後ろに付いている土を起こしたりかき回したりする爪があるのだが、それが一つとれているのが見つかったので業者に頼んだどころ全部交換だと言われた。
爪が爪の用をなさないことを説明されたのだが、なるほどそうだった。
これでは土を起こせないしかき回しも出来ない。
通常の爪はある程度曲がっているのだが、減ってしまって殆ど真っ直ぐになっていたのだ。
これでは田んぼに筋をつけていくだけで稲の株などはひっくり返せない。
もう一つ前輪から油が漏れるので修理を頼む。
爪交換と合わせるとひどい出費である。
今年は不作だったし機械がこれでは商売にならない。
これで自分も蜂に刺されていたら、文字通り泣きっ面に蜂だった。
この前全田んぼを一通り起こしたのに、起きていなかったので直ってきたら再度やり直し。
ほんとに泣きっ面に蜂みたいなものだ。
ひどく高い授業料だった。
毎年米作り1年生である。

591 男と女

人生は色々である。
同窓会の面々の人生を考えるとまさに様々。
みんな幸も不幸も背負ってきている。
すべて幸だったやつもすべて不幸だったやつもいない。
幸いにしてだいたい今が幸の奴等が集まっているように思う。
集まってこないのは今の状態が少なからず不幸を背負っているかそれとも幸の絶頂で同窓会なんてステーキのツマほどにしか思っていないやつだろうと思う。
しかし、大体酸いも甘いも分かったやつばかりなので無礼講で盛り上がったのだった。
しかしながらこんな歳になっても男は女を女は男を求めているというか異性がいないとつまらない感じがする。
終生変わらぬ人間の性(さが)なのかもしれない。
文化は男と女の間にあるものか。
宗教も男と女の間にあるものか。
あるいは男と女の間にあるものは文化や宗教である。
といってもよかろうか。
それはさておき、同窓会の会計処理をしたが、赤字にならず少しだけ残っただけでほぼぴったりだった。
もう若干残るくらいがよかったが、1回限りの会ならば大成功といえるだろう。
と自画自賛して終わり。

590 同窓会

今日は中学同窓会。
6年ぶりである。
我らの時代でも地元に残っているものは少ない。
男は全体の26%、女は一人きりで5%である。
その子どもたちで言うと二人だけである。
世代が新しくなるに連れて残るものが少なくなるというわけである。
と、それはともかく、今日は中3の担任だったお寺へ行ってまずお参り。
それからホテルへ行く。
温泉と食事でいっぷくし旧交を温める。
歳をとっても昔のガキに戻る。
そしていつものおきまりコースであるカラオケをする。

589 歌声喫茶

公民館で歌声喫茶なるものをやる。
喫茶と付くが昔のあの雰囲気を出すための言葉であってただ歌うだけの会である。
昔はわりとそこら中にあの歌声喫茶なるものは存在したが今はない。
ないといってもあることはあるらしいが。
今はカラオケ喫茶か。
新宿にはまだあの歌声喫茶があるみたい。
10年以上前に行ったことがある。
ロシア民謡花盛りであった。
今回はピアノとギターの伴奏付きである。
2時間ほど童謡、唱歌、流行歌、その他を歌いまくってきた。
そういえばその中にロシア民謡はなかった。
といってもロシア民謡で知っているのは、カチューシャ、ボルガの舟歌、カリンカ、ともしび、トロイカ、黒い瞳ぐらいしかない。
というか、思い出せない曲がもっとあるのだろう。
ネットで調べるとあの「国際学連の歌」もそうらしい。
それに加藤登紀子の「百万本のバラ」もそうらしい。
とはしらなんだ。
ロシアの歌と言えば、昔、赤軍合唱団というのがあってそのレコードをよく聴いた。
今でも赤軍合唱団というのはあるのかしら。
なんと言っても赤軍だからな。
「白樺は野に立てり」という歌があって、それはチャイコフスキーの交響曲4番に使われていて、4番を聞いたときどこかで聴いたメロディだと思って聞いた覚えがある。
他にも赤軍合唱団のレコードにはいい曲がたくさんあった。
思い出したらまた聞きたくなってきた。

588 反発力

ああついに来たかという感がある。
道徳の教科化。
戦後、復活をねらっていた修身の現代版。
現政権の遮二無二突っ走る姿勢がよく分かる。
そこどけそこどけである。
昨日の話題になった戦争へ突き進む道の3用件。
1戦争容認の国民感情 2戦争のできる軍隊がある 3戦争をやろうという政府がある。
この内の2と3はすでに着々と整えられた。
2については九条があるので今のところはおいそれと活動は出来ないにせよ準備万端というところである。
問題は1である。
どうにかして唆してでも戦争OKの気分にさせようという。
近隣が危ないやつだという気分を作る。
もう一つはやはり教育を攻めることである。
教基法を変えて愛国心を盛り込む。
そしてついに強制的に道徳の教科化でもって愛国心の注入である。
これでほぼ3用件は揃ったことになる。
このところぼろの出始めた政権だが、押し返す力はあると思わねばならない。
押されれば押されるほど反発力は強くなるのだ。
そのことを肝に置きつつ行動をしたい。

587 我が行く手

10・21といえば国際反戦デー。
その時の歌と言えば国際学連の歌。
出だしとか忘れていたので検索したら出てきた。
1番しか覚えていないが3番まであった。
  学生の歌声に 若き友よ手をのべよ
  輝く太陽 青空を ふたたび戦火で乱すな
  我等の友情は 原爆あるも たたれず
  闘志は火と燃え 平和のために戦わん
  団結かたく 我が行くてを守れ
原爆とはかなり大胆な言葉を入れたものだが。
学生が元気な頃の歌であった。
「団結」も今となっては死語みたいなもの。
我が行く手を守るという考えや行動力も半分死んだようなもの。
現実の若者の共通の文字取り闘志を奮い立たせる歌でなくて、団塊の世代の思い出の曲になってしまった。
今日は九条の会でその若者のことが話題になったが、社会的弱者に成り下がってしまった若者にこんな元気な歌が歌えるわけはないだろう。
弱者だからこそ奮い立って欲しいものだが、個別化されいわば引きこもってしまった一人ひとりにそんな力は湧くはずもなかろうと思うのだ。
社会的弱者にならせてしまったのはニューライティズムだが、そのイズムをどうにも防ぎきれなかった大人にも一定の責任はある。
希望は戦争と反語的に述べた若者がいたのだが、今は向こうから戦争がやってきそうな現実であり皮肉にも望まなくても戦争は起こりうる状況だ。
いずれにしてもロートルとて闘志を燃やして若者の行く手を守るようにしなくては。
と、思う今日この頃である。

586 だらだら論

今日は雨。
ちょっといっぷくといったところである。
なんにもしないでボーとしていると、ある意味これぞ至福のときと感じる。
人生なんて屁のようなもんだ。
だらだらしていることが一番いい、という風なことをいった人がいる。
どうせ死ぬんだ、滅亡するんだ。
と。
40年くらい前に何故だかせっせと読んだ作家深沢七郎という人である。
「楢山節考」が有名だが、「風流夢譚」で物議を醸した。
風流夢譚後の彼の人生も山あり谷ありでおもしろい?が、その人生経験が滅亡的人生論みたいになって面白いのである。
笛吹川とか東北とか地方ものが面白かったが、彼の波乱の人生を基に書いた庶民ものというか人生案内ものというかそういうものも面白かった。
実際に聞いたことはないがギターもプロ級でうまかったし、変な農場を開いたり、今川焼き屋をやったり、プレスリーが好きだったり、ビートルズもジミ・ヘンも好きだったりとか変な老人だった。
反語的意味で人生だらだら論をぶったかもしれないが、当時の経済成長路線のなかで無茶苦茶働く姿というものに対しての警告のようなものだったと今更ながら思うのである。
今の経済至上主義、グローバル経済主義、新自由主義体制にあっては尚更のように反語的に響くが、変わったといえばやはり労働環境である。
非正規や派遣社員にはだらだら論は通じないかもしれないが、資本の上部というか1%には反語的に響くかもしれない。
あるいは非正規も含めて「だらだら」を全労働者に蔓延させたらどうなるか。
経済至上主義は破綻への道をたどるのではないだろうか。
などと今日は思ったのだった。
単なる夢か。
それこそ風流夢譚か。

585 自然の営み

家の前を流れる川をみたら、アマゴが産卵をしていた。
一匹の雌アマゴがいてオスらしきあまごが3匹。
オスが一匹の雌をめぐって争っていた。
30分以上もやっていただろうか。
初めてみたので写真動画に撮った。
でも写りは小さくて余りよく分からない。
家の前でアマゴが見られることは滅多にないし、ましてや産卵シーンなどは生まれて初めてだった。
夜、テレビを見たら、ちょうど同じくサクラマスの産卵シーンをやっていた。
夕方家の前で見たシーンと全く同じで偶然にも同じ事を見たことになる。
家の前で見たアマゴのメスもオスよりも大きくて白っぽくなっていた。
あのアマゴが産んだたまごが大きくなって増えてくれればいいと思った。
家の前の川はアマゴがたくさん泳ぐ川となるとなんだか嬉しくなる。
人にはしゃべらず黙っていよう。
と思うが、増水したり冬になって水が涸れたりするとどうなるか分からない。
自然の営みは自然にまかせるしかない。

584 声聞くときぞ

日が短くなって夜が長くなる。
ここは奥山に違いないが、家のすぐそばで鹿が鳴いている。
こんなに近くで鳴くのは初めてだ。
人間と鹿は昔は里と山に棲み分けていたが、今は里で共存である。
鹿の鳴く音を聞きながら、物思いにふける。
まるで古典的感傷の世界だ。
鹿の鳴く音は、悲しい、哀しい、寂しい音がする。
ぴーと笛を吹くような。
さてそれはさておき、夜長となれば読書であるが、まるでそれが出来ていない。
読みたい本が積み上がるばかり。
寝しまにちらっとかじる程度しかできない。
読んでいるとすぐ眠たくなる。
アイパッドで無料アプリを使って、昔の本などを探すとあるわあるわ無料で読める本が。
漱石、鴎外、太宰、宮沢賢治など版権の無くなったのはいくらでもダウンロードして読める。
新しいのも金を出せば読めるのだが、試し読みみたいのがあって、少しだけけ読ませてくれるのもある。
キンドル版もアイパッド用のがあるのでダウンロードできる。
試しにナオミ・クラインのThis changes everythingをダウンロードしてみた。
結構長い文章が出てきた。
英文だから多分全部は読み切れないだろうが、少し読んでみたいと思う。
夜長だから音楽も聴きたいし本も読みたいし。
と思っているうちに、眠たくなって何も出来ぬうちに終わってしまう。
鹿はそのうちに鳴かなくなったが、夜中に出てきて恋のさや当てか。
さや当てはいいがまた子どもが増えると困る。

583 自己否定と自尊感情

宗教(真宗)に詳しいわけでもない。
心理学・哲学・教育に詳しいわけでもない。
わけでもないし、間違った思考かも知れないがふと思い続けていることを書く。
真宗では悪人正機説か親鸞様の教えかも知れないが、おまえ等は悪いことをするものだ。
だから悪いということを自覚しなくちゃならないよ。
でも安心していいよ、悪いやつだってお救い下さるのだ。
という。
悪くても救われる。
と言うことは誰でも救われると言うことで、差別がない。
地獄に堕ちるということもあるが、こうなると誰も地獄に堕ちるものはなくなる。
しかし、根底には悪いということを自覚せよ。
つまり自己否定せよ。
ということが横たわっている。
繰り返していうならば、自己否定してもいい、救われるから。
安心して自己否定せよ。
ということになる。
真宗は自己否定の教義を持っているといえる。
ここまで書いたことは間違いだろうか、それは分からない。
だが以前に上記のようなことを聞いたことがあって、そのとき、自分は教育に携わったものとしてふっと疑問がわきその疑問を呈したことがある。。
教育では自尊感情=自己肯定感を持たせること、あるいは育てることにきゅうきゅうとしている。
自己否定の反対のことである。
これをどう見るか、ということである。
自分は駄目な人間であると思うことは間違いである。
駄目な人間はいない。
だから自分を大切にしなさい。
生きてていいんだよ、命より大切なものはないよ。
だから命を大切にしてね。
と、いうのである。
太宰治も真っ青の人間合格論である。
相対する人間観であるのだが、どちらも正しい。
と考えていいのか。
敢えて二つを統一するならば、自己否定をするあなたのような人間も救われるのです。
だからもっと自分に自信を持って自分を大切にして生きましょう。
ということか。
強引過ぎか。

582 自然と異常

秋の田起こしの準備のため久しぶりに田んぼに出る。
藁を腐らせるための肥料をまくのである。
それを蒔いた後また別の肥料をまく。
土の改良のためと米の味をよくするためのものである。
と、売り手の肥料会社はいうのであるが、果たしてほんとに味がよくなるかは分からない。
味の最大の決め手はやはり太陽の恵みと水ではないかと思う。
肥料を背中におんでしゃかしゃかと田んぼ中を歩き回って蒔くのであるが、まだ蛙がひょこひょこと出てきたりする。
ついでに蛇も出てきたりして追いかけっこをする。
今頃出てくる蛇は穴惑いの蛇だ。
この前草刈りをしていたらちび蛇がいて知らずに切ってしまった。
蛇や蛙がいるうちは平均的な自然でいいと思うのであるが、この頃気になるのはカメムシが異常に多いということである。
今年は春からカメムシがいておかしいと思ったが、なんだか秋も異常に多いのではないかと思う。
この前ふとんを干したらふとんの陰に20数匹のカメムシを発見し捕るのに一苦労した。
カメムシが多いと雪も多いというがどうなのだろう。
夏の気候異常といい、この冬の雪も心配である。
ナオミ・クラインは新著で気候が経済に及ぼす影響について書いている?ようであるが、今後グローバル的にも気候は人類にとっての一つの重要なキーワードというかファクターになるのではないか。
と思うのである。

581 同窓会と四季

今日は同窓会。
と言ってもミニ。
同窓会は三つある。
中学校、高校、大学。
今日は大。
写真を持ってきてくれた友人がいて、その写真の場所を巡ってみんなの記憶が曖昧でなかなか特定しづらい。
そこに自分がいたことも不思議な人もいたり。
そこにいたことは分かるが果たしてそこでどんなことをしていたのかとなるとまるきり記憶がない。
人の名前は大体誰かが覚えていて分かったが、中にはそんな先生いたっけかなという先生の名もある。
人の記憶はほんとに無くなるものだ。
しかし反対によく覚えている人もいて感心する。
1年に1度のミニ同窓会だったが懐かし楽しいものである。
帰りに車中で音楽を流しながら来た。
今回心に残ったのはピアソラの「四季」のうち「冬」。
ピアソラは「ブエノスアイレスの四季」を「夏」から書いて「春」で終わるのだが、そのうちやはり自分的には「冬」が一番好きである。
今回はピアソラ自身のバンドネオン演奏とラオス・レンチェシュというオーボエ奏者の弦楽器入りのバージョンを聞いてきたが、どちらもいい演奏である。
他にも小松亮太とか、この曲を演奏しているプレイヤーはいっぱいいるが、誰が弾いてもそれなりに味わいのある曲になる。
ピアソラは一時ブームになるほどであったが、「リベルタンゴ」がヒットしたからだろう。
ニューヨーク、ブエノスアイレス、パリなどあちこち行った人だがジャズ的でもありクラシック的でもありなおかつタンゴであるから深いものがあるように感じる。
バンドネオン、好きになると結構はまる。

580 正流

台風一過、無事に?通り過ぎてよかった。
夜中だったので風の音も雨の音も気がつかないくらい寝ていた。
今朝起きたら、川の水が増水していた。
この前川の中の草を刈っておいたら全部水をかぶって流されていた。
ゴミを流したようなことで下流の人には申し訳ない。
我が家の前の川は大雨が降ると増水するが、それと同時に泥や砂や石も流れてきて堆積する。
以前は土手の上から水面まではかなり高かったのだが、この頃はすぐ届くくらいに低くなってしまった。
この堆積物を取ってくれるように要望しているがなかなか取ってくれない。
多分堆積物は昔の川底からすると5,60センチは高くなったと思う。
それを考えると水の力は大きい。
結構大きな石をごろごろと川底を転がして来るのだから。
山本周五郎という作家の「あおべか物語」だったかで、この水中の石が川下から川上の方へ向かってごろごろと動いていく、というような表現があって、それは作中の人物の変な思いこみというか理屈でそう書いていたのだが、変な思いつきをするものである。
今の「とんでも官邸団」はまさに、川下から川上に向かって流れを逆流するかのごとくの振る舞いである。
しかしいずれはその逆流は押し流されて正流になるだろう。
そうなるように正流の力を強くしていかなければならない。
と、思うのだが。

579 タイフーン

19号が来るというので予防に万全。
台風といえば「タイフーン」と「野分」。
思い出した詩と俳句をコピペする。
・・・・・・
秋 Ⅱ 西脇順三郎
タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ

タイフーンを台風といっては興ざめ。
「あ」と「き」と「も」の韻とか「もん」の韻とか音からおもしろがる人もいる。
タイフーンと黄色い鉛筆とバラモンと門の取り合わせがわたくし的には面白い。
最後の締めが今でなくて明日の朝のことで突然に秋になる、ということもさすがの詩人であると思うのだ。
・・・
芭蕉の台風関係は3つあった。
勿論「野分」であるが。
・芭蕉野分して たらいに雨を 聞く夜かな
・吹き飛ばす 石は浅間の 野分かな
・いのししも 共に吹かるる 野分かな
勿論「野分」=「台風」ではないが浅間の野分は台風の感じがする。
いのししのもそんな感じ。
ここらでは鹿も猿も猪も山の中で台風に耐えているかと思う。
「いのしし」には5音を作る上で「いのしし」だっただろうと思うが、実際は山の中の獣みんなを代表として出ているにすぎない。
芭蕉野分しての芭蕉は5音からすると余分だが、芭蕉という植物の葉っぱに当たる雨と風を連想させて中の盥の音と対比するという効果を出している。
のじゃないかと思うのだが。

578 宮本文昭

miyamoto.jpg

昨日テレビで何気なく見ていた映画の音楽がどこかで聴いたメロディだと思って思い出そうとしていたが思い出せなかった。
映画の題は「明日の記憶」というもの。
若年性アルツハイマーにかかった男とその妻の情愛を描いたもので、渡辺謙と樋口可南子が演じていた。
何という音楽か思い出そうとしたが思い出せなかったので最後の字幕で確かめようとしたら、音楽は大島ミチルと出ていたがあまり覚えがなかった。
しかしオーボエ=宮本文昭と出ていたので、「ああ」と思って、アイポッドに入れている宮本文昭の曲を調べたら「明日の記憶」という曲がそのまま入っていた。
作曲はやはり大島ミチルだった。
やはりそれで聞いた曲なのだった。
この曲が入っている宮本文昭の「THANKS!」というアルバムはとてもいい曲ばかりなのでよく聞いていたのだった。
宮本文昭さんはこのアルバムを最後にオーボエ奏者として引退してしまった。
まことに残念だった。
その代わりに指揮活動に専念するようになっった。
お嬢さんは宮本笑里(みやもとえみり)さんで美人で評判。
それはともかくこの「THANKS!」に入っている最後の曲も素晴らしくいい。
「THE AIM & END」という曲。
宮本さんはオーボエの巨匠ヘルムート・ヴィンシャーマンに師事している。
わたしがオーボエを好きになったのはこの人のバッハのオーボエ協奏曲を聴いてからだから、師事したとなると非常に親近感を覚える。

577 調子

アイパッドの調子がおかしくなった。
昨日はパスワードの再設定で何度も同じ動作を繰り返すがうまくいかず、10回以上かかってやっと設定完了。
そしてその前からおこっていることだが、ヤフーやFBを開こうとしても開けなかったり、新しい記事がなかなか出なかったり。
それで電源を切るボタンを押して再度電源を入れるとそれがなおるのだ。
しかししばらくするとまた動かなくなる。
こんな状態が続いているのでいらいらする。
このまえiOSが8.0.2にバージョン・アップしたのでその時からどうもおかしくなった気がする。
あやうし、じゃなくてあやしいiOS8だ。
iOSはアイオーエスアイオーエス・・・アイヤーシイみたいだ。
て、そんなこといってる場合じゃないが。
そんなことより台風が心配。
19号。
進路はちょうどど真ん中に当たる。
今日は迎え撃つ準備。
畑のものを囲って風が出来るだけ当たらないようにした。
ネットを外した。
ネットを外すと今度は鹿や猿の侵入が心配。
痛し痒し。
鹿は夜の出没。
猿は昼の出没。
それにしてもアイパッドは直らない。

576 まららさん高木さん

結局平和賞は取れなかったが今年はマララさん。
ともう一人インドの活動家。
マララさんの獲得は納得、きっとこれを元に彼女の活動も広がるだろう。
これからの人が獲得するのは運動が長く続く上ではちょうどいいことなのかも知れない。
さて一昨日10月8日は高木仁三郎(たかぎじんざぶろう)さんが亡くなった日である。
2000年10月8日。
高木さんは市井の科学者として長く反原発運動をしてきた人。
地震による事故としてフクシマの事故も早くから想定していた。
ユーチューブで高木さんの特集を見てみた。
やはり、それ見たことかとフクシマの事故を見て思われたに違いない。
それなのに再稼働とはと怒りに体を振るわされているに違いない。
一度仲間内で高木さんのことを振り返って学習してみたい。

575 無節操

一方では押し付けられたといいながら(憲法)、一方では追随主義という矛盾(安保)。
節操がないというのはまさにこのことである。
ガイドラインもまさに追随。
今回は周辺事態という文言を取っ払ったとある。
どこへでも追随しますよという宣言である。
そもそもガイドラインというものは屈辱的なものにすぎない。
今回は国会での論議もなく、集団的自衛権と同じで勝手にやっている。
好き放題、やりたい放題、今のうちなら何でもやれると暴走も甚だしい。
矛盾も無節操もお構いなしの幼児の行状である。
こんなんを頭にいただく国民は他国から見てどうなんだろう。
おめでたいピープルだと見られているんだろうか。

574 倫理観

ゆくのはわたしら

九条の会の運動は今年で10年目。
全国に運動の広がりを見せている。
「九条に平和賞を」もその運動の盛り上がりがあってのことだろう。
山梨?だったかの一人の主婦の方の発案で署名の輪も広がった。
これはネットの力、特にFacebookの力も大きい。
それはともかく10年前に著名な9人の方の発案で始まった九条の会。
現在その中の4名の方がお亡くなりなっている。
加藤周一、井上ひさし、小田実、三木睦子さんである。
何年か前に首都で講演会があったときに、その方たちの生の声を聴いた。
また別の機会には井上ひさしさんの声も聴いたし今存命の方の声も聴いた。
一回も聴いていないのは梅原猛さんである。
なかなか集会には出ていらっしゃらない。
それはともかく若い方の一部の思考が心配、というか不見識というか、とにかくおかしいと思うことがある。
シリアの騒動に駆けつけて戦闘行為に参加したとか、それに向けて出国しようとしたとかのニュース。
「殺されるのはこわくない」とまで言っている。
やはりその裏には、行き場のない社会状況というものがあるように思えるが、殺し殺される戦場というものを平然と肯定しうる心境はほかっておくわけにはいかない。
特に「死」というものを軽んずるような倫理観。
そして自己の尊厳すら軽んずるという思考、思想。
ヘイトスピーチもその枠内に入るであろうか。
これらのことが若者に広がっている?とすれば怖いことである。
どうすればいいのか

573 ノーベル賞

順次発表されるようであるが、平和賞が気になる。
にぽんの憲法九条が対象に上がっていると新聞も報じているが、もしもほんとに受賞したら大変なことである。
いい意味で大変である。
平和賞のみノルウェー政府が選考して受賞者を決めるとあるが、これまでの受賞者の中にはクエスチョンの付く人がいくらかいる。
一番?!の人は佐藤栄作。
非核3原則を作ったとかで選んだらしいが晩年の行状を見る限り返せといいたくなる。
オバマも核をなくすという演説のみで貰ったようなものだが、その後の活動はそれに値することをしているか疑問。
ダライ・ラマやスーチーさん、中国の劉暁波(りゅうぎょうは)など国内では抑圧されている人がいて受賞に対して政府に冷遇されている。
数日前我が書庫に入って本を見ていたらエリ・ヴィーゼルの「夜」という本が出てきた。
アウシュヴィッツ体験を本にしたものである。
裏を見ると1970年12月に読了とあるからかなり前の本である。
当然、内容はほとんど忘れた。
再度読んでみようと思い持ってきた。
そのヴィーゼルもネットで見ると1986年に平和賞を受賞している。
しかし、もっと詳しく見るとホロ・コーストを単なる金儲けのネタにしているという批判も受けているのだが。
いずれにしても平和賞は誰が見ても平和に貢献した人や団体に送られるよう望むものだ

572 積極的平和論

雑誌「世界」に掲載された憲法にかかわる論文を集めた「世界」憲法論文選1946-2005という大部の本がある。
その最後のところで、1991年の5月号後に載ったものであるが、「いまこそ積極的平和論を」という題で鯨岡兵輔と隅谷三喜男の対談が載っている。
これは「積極的平和主義」と似ているが全然違うといってもいいだろう。
鯨岡氏はその中で「あの憲法前文の精神、憲法第九条の精神というものを確立していく必要があると思う。」と述べている。
「日本はアジア全体の繁栄の中にいるべきであり、日本の平和はアジアの平和の中に道を求めるべきであった。アジアを忘れてアメリカ追随の道をとってきたことは一つの大きな誤りだった」とも述べている。
1991年といえばハメリカが湾岸戦争でイラクと戦ったときである。
日本はそのとき何もしないのでハメリカが業をにやし金を出させた。
90億ドルだった。
そしてその時からだんだんと自衛隊の海外派遣が進むようになる。
それと積極的平和論と重ねると、いかにも9条をないがしろにして戦争容認のような感じを受けるがそうではない。
彼らがいうのは武力で物を言うのではなく、アジアの国々に対して対等平等にハメリカの思惑などなしで話し合うことが出来るようにすることが積極的平和だというのだ。
これまでは日本だけが小さく平和国家として生きていけばよかったが、経済的に大国化してくると政治的にも責任をとらざるを得なくなる。
その時に守りの姿勢だけで平和を考えているから、自衛隊を出すものかどうかというようなぐらついた平和思想となってしまう。
だから今一度憲法の精神に立ち返り、積極的な平和の思想を確立したいというわけだ。
一歩間違えばだから自衛隊を海外に出せるようにするべきだ。
あるいは、日本も軍隊を持つべきだ。
となるのであるが、二人がいうにはそうではなくて、憲法の精神、九条の精神に帰れといっているのだ。
平和思想がぐらつくにはやはり九条の精神を確固として自分の中に持たないからだ。
ということである。
だから政治家ばかりでなく国民の側にも反省すべき点はあるといっている。
隅谷は、「日本の姿勢を変える日本的な柱の一つは、人間としてのあり方において経済を越えた幅をもち、社会的にももう少し幅をもって世界を見る、そういう姿勢をもつことだ」という。
そうならないと積極的平和論は築かれない。と。
だから経済を優先するいまの積極的平和主義とは違う。
「金より命」と、「命より金」の違いである。

571 死の移転

「武器輸出三原則を改悪」して「防衛装備移転三原則」に変えた。
今晩のNKTで特集を組んでいた。
あえて九条に触れるというところまでは踏み込んでいなかったが、憲法九条という言葉を使ったのが精一杯だったかのよう。
防衛省の役人は海外に出かけて売り込みをかけている。
堰が切れたように命より金がここでも大手を振っている。
三菱が乗り出してきたことに歓迎する外国軍部。
日本の技術がハメリカのミサイルに組み込まれてもそれは仕方がないし、それがさらにハメリカから他国に輸出されようがそれは知ったことではないという。
民間の産業では例えばレンズなども軍事に使われるかも知れないが、それを追跡までは出来ないというジレンマがあるといっていた。
しかし、電子部品などに限らず、単なるネジのようなものまでも軍事部品に使われるとしたらやはり良心的な会社は心配だろう。
日本の戦争放棄という信用はこれでがた落ちだろう。
一回落ちた信用はなかなか戻せない。
が、なんとか戦争大好き人を打倒して戻さなければならない。

570 印象の変化

「らららクラシック」を見ていたら、昨日の広上淳一さんが出ていた。
指揮をするときにどこを見ているかという質問に答えていた。
演奏者の表情と出てくる音を聞いているといっていた。
スコアはあっても暗譜しているから音に集中するのだろうと思った。
作曲家は自作自演する場合があるが、その場合は自分が思い描いたとおりに演奏者に指揮することは出来る。
しかし、指揮者は作曲家ではないから作曲家が思い描いた音の大きさや速さなどは想像して指揮するしかない。
なので同じ曲でも指揮者によってかなり違った曲になる。
そんなにたくさん聴き比べたわけではないが、交響曲にしても室内楽などの小品にしても指揮者や演奏家によって変わってくる。
聴く側としてはそこが面白いところでもあるのだが、やはりどうしても一番最初に聴いた演奏家のレコードが他と聴き比べたとき一番しっくり来ることが多い。
しかし、そうでない場合もあって後から聴いた演奏家がいいじゃないかと思う場合もある。
マーラーの2番はワルター指揮のコロンビア交響楽団がずっと一番であったが、このごろ世間の評判にも影響されたかも知れないし自分でライブで聴いたせいもあるかも知れないが、エリアフ・インバル指揮の都響もいいと思うようになった。
ほかにもバッハのオーボエ協奏曲はヴィンシャーマンが一番だったが、マルセル・ポンセールのオーボエを聴いたらそちらの方がぐんとよくなったりもした。
クラシックの場合、同じ曲をやっているのに印象が変わってしまうのは面白い。
といっても、やはり聞き込んでいないとそういう違いは分からないのではないかとも思うのだが。
BTW、インバルのことだが、来年3月にまたライブを聴きに行くことになりそうで楽しみである。

569 マーラー5番

久しぶりに芸文でクラシック・ライブ。
広上淳一・京都響のマーラー5番である。
出だしのトランペットの主題が弦に移って展開されていき、オケ全体がフル出動となる盛り上がりがいい。
弦も管も力一杯音を出すと指揮の広上さんも飛び上がるような感じが面白かった。
広上さんは背が小さいので飛び上がるくらいにしないと大音響が発せないみたい。
小さな体で大きく体を動かして汗だくであった。
2楽章の流れるようなアダージョのメロディは聴き入った。
チェロのみがソロでそれを弾く時はほんとに気持ちよかった。
吸い込まれるというか、流れに乗るというかあのテーマはよく生まれたものだ。
天才マーラーよくぞ思いついたテーマだった。
チェロから弦全体へ移っていく様もわくわくする。
あまり気持ちよかったので、3,4楽章は居眠り気味で聴く。
そして5楽章テンポよいリズムが目を覚ましてくれて最後まで。
いいねマーラー。
アンコールもやってくれたのだけれど、マーラーで満腹したので出来れば無しでもよかったのにと思った。

568 走る人

社教の大会に行って来たのだが、冒頭、ひのきみには辟易した。
大会長自ら伴奏、歌なんてウヨクの大会だ。
どういう神経の持ち主か。
あとの会議が幻滅する。
会の性質上昔教師が多い。
この県の風土として管理職等になるものはライチストが多いと言うことだ。
平気で何の疑問も持たずひのきみOKの精神風土である。
自ら伴奏、歌なんて得々としているじっさまだった。
しかしそこは目をつむって観察しながら参加。
懐かしき人々にも出会う。
サプライズは43年前の先輩の同僚。
500席近くある椅子席で隣同士に座ったのがその人でお互いにびっくり&興奮。
会議中でもありそんなに話す時間もなかったが、43年前のことが走馬燈のように思い出される。
この前は43年前の教え子だったのだが、そのときの同僚だった方であった。
今日はイヤに熱心に社教委員として取り組んでいる人の報告が心に残った。
コーディネーターとファシリテーターが地域づくりにおいて重要になって来るという話だった。
コーディネーターはよく聞くが、ファシリテーターというのは初めてだった。
facilitate=行動・処置などを促進[助成]する、 〈物が〉〈人を〉手助けする
coordinate=各部を調整し、全体をまとめること
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