1429 馥郁タル火夫3

(馥郁タル火夫の続きの文 「来たらんか火よ!」で終わり)

「何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。
 或は窓掛の後ろより掌をかざすものあれども睡眠は薔薇色にして蔓の如きものに過ぎない。
 我は我の首飾をかけて慌しくパイプに火をつけて麦の祭礼に走る。
 なぜならば巌に水の上に頤を出す。訶梨勒を隠す。
 筒の如き家の内面に撫子花をもちたる男!
 ランプの笠に関して演説するのではない然し使節に関して記述せんとするものだ。窓に倚りかかり音楽として休息する萎縮病者の足をアラセイトウとしてひつぱるのである。
 繁殖の神よ!夢遊病者の前に断崖を作りたまへよ!オレアンダの花の火。
 桃色の永遠に咽びて魚をつらんとする。僧正ベンボーが女の如くささやけばゴンドラは滑る。
 忽然たるアカシアの花よ!我はオドコロンを飲んだ。
 死よさらば!
 善良な継続性を有する金曜日に、水管パイプを捧げて眺望の方へ向かんとする時、橋の上より呼ぶものあれば非常に急ぎて足を全部アムブロジアの上にもち上げる。すべては頤である。人は頤の如く完全にならんとする。安息する暇もなく微笑する額を天鵞絨の中に包む。
 コズメチツクは解けて眼に入りたれば直ちに従僕を呼びたり。
 脳髄は塔からチキンカツレツに向って永遠に戦慄する。やがて又我が頭部を杏子をもってたたくものあり。花瓶の表面にうつるものがある。それは夕餐より帰りしピートロの踵。我これを憐みをもつてみんとすれどもあまりにアマラントの眼である。
 来たらんか、火よ!」

見慣れない言葉が又いくつか出てくる。
「訶梨勒」(かりろく)とはインド原産の植物で袋に入れてつるす。あるいは象牙・銅などで作った飾りのこと。匂い袋のようなものである。 
頤はおとがい、おとがいとは人の下あごのこと。
この言葉は3回も出てくる。
天鵞絨はビロードのこと。
相変わらず無関係に思える言葉がつながって文が進んでいく。
詩人の頭の中に浮かんだ言葉が少し練り合わされて、或いは混合されて、或いは引き離されて詩が作られていく感じ。
そして詩人の意識が流れていく。
その意識の流れにその言葉が乗って詩となっていくのだ。
「意識の流れ」というのは丁度西脇がロンドンに留学している頃ジェイムズ・ジョイスによって始められた文学上の技法である。
ジョイスの「ユリシーズ」はその代表作品。
その意識の流れに乗って書き表していくと自然とシュールな詩になるみたいだ。
しかしそれにしても難解といえば難解。
一体何の事やら当たり前の現実がない。
現実が破壊されているといっても良い。
しかし、それが文学的味わいを出している。
非現実でなくて超現実。
虚構でなくて超虚構。
って勝手な言い方だけどそんな気がする表現方法だ。
絵画でいうところのダリの「記憶の固執」という絵の溶けていく時計と同じだ。
断定的な言い方や、命令文がよく出てくるが面白い。
頻繁に使われる「!」
日本の詩に「!」を持ち込んだのは西脇が最初ではなかろうか。
「死よさらば!」
「脳髄は塔からチキンカツレツに向って永遠に戦慄する。」
「来たらんか、火よ!」
脳髄は・・・という文はいいなあ。
今日も575が出てこない。0212
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田舎親爺のつれづれ日記。記憶を記録に、記録を記憶に。
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