「現代詩手帖」9月号
水野隆「月蜘蛛松宵絲車」を書いている。
読み方は「つきにくもまつよのいとぐるま」
時代物と戦後の情景の2幕の劇もののシナリオである。
水野隆は故人となられたが我が町の”文化人”であった。
このころ、現代詩手帖に書いていたとは知らなかった。
この70年9月の時に彼が我が町の人であることも知らなかったのだ。
帰郷してからは彼の姿をよき見かけたものだったし、一度お邪魔もしたことがあった。
次、柄谷行人が評論「批評の根拠をあかす」を書いている。
柄谷といえば非常に小難しい文章の書き手という印象があるが、この文はそれほどでもない。
「・・・・渋沢氏(渋沢孝輔)の規定によれば、『現代詩』とは『語に主導権を渡す』(マラルメ)ことであり、言語が『近代的自我』や自己表現にとってかわって支配することである。それを氏は、『自我から言語へ』の転回と呼んでいる。・・・」
と言う様な書き出し。
「近代的自我」という言葉に久しぶりに会った。
昔よくこういう評論で使われた言葉だ。
今日は昨日に続いて非常にショッキングなことがあった。
気持ちが滅入る。
戻れないという状態ほど滅入ることはない。
戻ってほしいのだ。
エルサレム発言に対してニホンは反対の立場だと。
いいのか、亜米、虎に背いて。
まあ世界の常識だから常識に背くことは反発を食らうという算段か。
トラの出方が見ものである。
ショックで575が浮かばない。
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