525 本望

好きなことをしていて死ねば本望だということがある。
登山家が登山していてなんらかの事故で死ぬ。
それは登山家の本望であるという具合に。
戦時中は敵の戦艦にあるいは戦車にぶつかって死ぬことがあった。
それは 男子として本望であったとか本懐であった、とかいう。
当時としてはそれは本望であったかも知れないが、本当のところはどうなのか。
戦争で死ぬことほどつまらないものはない。
しかし、それではいかにも無駄死にだということで意味づけとして死ぬことが本望に格上げされたのではないか。
しかし、銃弾や砲弾に当たって死ぬ間際になって人間というものは本望だと感じられるか。
否である。
誰しもが家族、恋人、親のことを思い死んでいくのではないか。
その際に俺はこれが本望だったとは考えにくい。
原因は教育とプロパガンダである。
今またヤスクニを訪れる子どもがいるそうだが、その際に多かれ少なかれそういう気持ちを抱いている子どもがいるという。
国のためにという思考がそこで注入されるのだ。
思考するには格好がいいが実際に戦場に出て銃弾や砲弾が飛んできた場合に本望だなんて思わないに違いない。
そこをよく考えるべきである。
「国のため」という言葉の甘言あるいはにせロマンにだまされてはいけない。
そして「本望」という甘言あるいはニセロマンにもだまされてはいけないのだ。
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Author:JAZZY
田舎親爺のつれづれ日記。記憶を記録に、記録を記憶に。
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